2/2(金)大根と豆のカレー

今日はweb取材が2件と、打ち合わせが1件。どれも1時間ずつと短いけれど、細切れに日中に入ると、それだけで他になにもできなくなるような気がしてしまう。かたわらで、明日の営業でマフィンに使う、在来大根と在来大豆のカレーを煮込んでいる。

大きな圧力鍋一杯で作る予定だったのだが、今すでにコンロで2台分の大根と大豆が火にかけられている。元は大根だけで作る予定が、明日は節分だなとふと思ったら大豆を無性に入れたくなり、小川町で買っていた大豆を水で戻し、急遽加えたらこんな量になった。マフィンにするには多すぎるから、翌日以降の家族のごはんになるだろう。ちょっと嬉しい。

思えば鍋ものを作るとき、ひとつの鍋でおさまったことがほとんどない。元はひとつの鍋でと思って作り始めるのだが、あれも入れてこれも入れてと材料を増やしていくうちにあふれてしまい、結局ふたつめの鍋が稼働する。
この間インスタグラムで「おでんの適量がわからない」と溢れそうな鍋の写真をあげていた方がいて、心をこめていいねを押した。本当に同感。鍋ものの適量がわからない。

今日のお昼は今週の頭に作ったピェンロー鍋の残りに、味噌を加えて味噌汁風になったもの(あと魚と納豆ごはん)。この鍋も本当なら1日で終わるはずだったのに、残りに味噌を足して、冷凍していた青菜を加えて、豆腐を…と増やしていたら、けっきょくまだ鍋の半分くらい残っている。さすがに飽きてきた。

おいしいものはおいしいうちに食べ切るのが一番おいしい。なのにこうやってなんでも多めに作ってしまうのは、根がすぼらで、欲張りだからなのだろう。ついでに根性がつい芽生えてしまうからなのだろう。

でも「多め」ってなんだか響きだけで安心感があり、幸せなワードなのだよな。根が欲張りなのは前世でひもじい思いをしたからなのかもしれないと、真剣に考えたこともある。

多めに作る瞬間はいつだってちょっと嬉しく、それを消費していく段階になって嬉しさが萎んでいく。その繰り返し。

食材のミニマリストにはまだなれそうにない。

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