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親の死

 娘が高校時代に描いた油絵大小十点と、スケッチブック十冊を、日本へ船便で送った。船はスエズ運河を抜け、インド洋を渡ってやってくる。どの絵を壁のどこに飾ろうか。マンションの壁を見つめる。
 妊娠は難しいという診断に家を買ったら女の子を授かった。屋根裏を子供部屋にするなど、リフォームを楽しんだ家だったが、娘は中学からイギリス、そして大学はウィンブルドンへ進んだ。子育てには目途がついた。今後は自分たちの老後を考え、二階家は売却してマンションに越した。その背景には、親の死があった。六年間に三人を見送った。
 妻のお父さんの食道がんが見つかったのは、娘が留学した年だった。術後の経過が良かったので、翌年、孫に会いに行くことを提案した。お父さんは海軍だったから英国に憧れがあったようだ。ぐんぐん元気になった。
 できるだけ見せてあげたい。旅程は八日間とし、飛行機はアップグレード、レンタカーはベンツ。体調によって日程を変える覚悟で出発した。
 学校では教会の卒業式を見物することができた。後見人のお宅を訪問し、お礼を言うことができた。銀行員のご主人が手作りのサンドイッチでもてなしてくれた。観光地のボートン・オン・ザ・ウォーターに立ち寄り、ウィンザー城を見学し、ロンドンは観光バスの二階から見物した。バッキンガム宮殿の近衛兵交代も見ることができた。なにより孫が英国でちゃんと暮らしている様子を確認できて安心したようだった。
 九月、旅客機がワールドトレードセンターに突っ込み、冬休みの娘の帰国はあきらめた。年が変わると、お父さんの病状は悪化して入院、喉にチューブが入った。短い春休みだが帰国させることにした。もう秒読みだった。成田から病院へ直行させた。待っていたかのように息を引き取った。チューブでしゃべれなくなったお父さんは、たくさんのメモを遺してくれた。
 イギリスに妻の両親を連れて行った翌月、「あなたのお父さんが亡くなりました」という電話があった。そういえば私にも父親がいた。私が一歳のときに家を出て行った人。母は「チチシベツとしておきなさい」と教えた。母子家庭の都営住宅では、そのほうが通りがよかったのだろう。大学も電電公社も「父死別」と書いた。
 朝、有休を申請して新幹線に乗った。新しいWebサイトでトラブルがあり、大阪駅でパソコンを開き電話会議。寺の近くの喫茶店でも再び。着いたときにはすでに読経が始まっていた。一番前の席に案内されて、自分が長男だったことに気づいた。
 昨夜、電話してきたのは息子さんだった。突然、家の机の引き出しを病院に持ってくるよう言ったそうだ。その中に私の連絡先が書かれた手帳が入っていた。そのまま延命を拒否し、息を引き取った。家族は誰も、前の結婚の話を聞いてなかった。
 その人に私は二回会っている。五歳になったとき、母は「親を選ぶ権利がある」と言って私を連れてきたそうだが、そもそも父が何なのか、五歳の私には分からなかった。
二回目は電電公社に入った年。現場実習先の京都から手紙を出し、東大寺の山門で待ち合わせた。そのことを家族は誰も知らなかった。秘密にできたのは、その人のお母さんを仲介したからだ。再婚後の住所を母は知らなかった。私は母から聞いた住所に手紙を出した。
 奈良で父と決別し、いつの間にか死別した気になっていた。昨夜の電話で父親はまだ生きていたことを思い出した。そして、今度が本当の死別、だが特別な感慨は湧かなかった。ところが、しばらくして、久しぶりにあの夢を見た。
 子供時代は、同じ夢を繰り返し見たものだ。空を飛ぶ夢、ゴジラがやってくる夢、それらは成長するに従い見なくなっていった。しかし、四十を過ぎても見る夢が一つ残った。
 幼い私は母に手を引かれ、見知らぬ街をとぼとぼ歩いている。目を開けると木造アパートの天井、私はこたつに寝かされていた。母が横で正座している。こたつの向こう側でおばあさんが針仕事をしている。火鉢の鉄瓶が湯気を立てている。「ギシギシギシ」誰かが階段を上がってくる。すーっと襖が開き、男の顔が、、、夢はそこで終わる。映画の一場面かと思ってきたが、あれは父だったのではないか。一年後の墓参りで話してみると、場面は父のお母さんのアパートとぴたり符号していた。それから、もうあの夢を見ることはない。
 妻のお母さんが倒れたのは、妻のお父さんの二年後だった。お母さんが珍しく曜日を間違え、妻は気になって実家に頻繁に電話をしていたらしい。その夜、電話に出ないので実家に行ってみると台所で倒れていた。私は韓国に出張中だった。
 妻はお母さんを抱えてタクシーを拾い、近くの病院に行ったが、すぐ日赤病院に回され、そのまま入院になった。十数センチに成長していた脳腫瘍の切除によって身体半分が麻痺し、しゃべれなくなった。筆談すらできなかった。ついこの間まで元気に自転車で買い物をしていたお母さんが、突然赤ちゃんのようになってしまった。十時間を越える大手術を二回、リハビリ、放射線治療、だが翌年他界した。
 最初の手術のあとは退院を信じ、実家を改装し始めた。ベッドを一階に降ろし、廊下やトイレに手すりを取り付けた。娘は実家の油絵を描き、リハビリの励みになるよう病室に飾った。しかし、思うようには改善せず、介護施設で経管栄養をお願いし、とうとう胃瘻に。
 病院から自宅に帰還するために電動リフト付きの車を購入した。しかし、帰還は一度きりで、あとは病院や施設に夫婦で通う足となった。(久々に帰宅したお母さんは、箪笥を開けようとして転倒してしまった)
 妻は東芝を辞め、キャリアカウンセラーとして忙しい中、転院、介護施設探し、葬儀、実家整理と走り回った。私も開発プロジェクトのトラブル対応で忙しかった。見舞いの行き帰りの車中が、夫婦でゆっくり話す時間となった。それは、お母さんがくれた時間だった。
 私たちも元気なうちにマンションに住み替えよう。子供が巣立ったあと必要な部屋、資金などを相談していたおかげで、近所のマンション売り出しにすぐ決断ができた。
 正月、娘に高校の卒業式で着る予定の着物を着せ、介護施設を訪問した。娘がイギリスに戻った五日後、お母さんは息を引き取った。共通試験(Aレベル)を控え、再帰国は断念した。葬式では娘が描いた絵を飾った。
 マンションの壁の絵たちには、当時のいろいろな思い出が詰まっている。

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