老人ホームにも電子カルテ

 新人にいきなりカルテ周りの開発は無理だ。知識もだが、クレームで挫折するのが心配。そこで、新しく作る老人ホーム向け画面を担当してもらうことにした。
 老人ホームには、NTTコムウェア時代、ヒアリングに行ったことがある。私は社宅をターゲットに住宅検索サイトを企画していたのだが、退職者向けに高専賃(高齢者専用賃貸住宅)の検索をやろうと持ち掛けてきた人がいた。高専賃は二〇一一年、サ高住(サービス付き高齢者向け住宅)に改名される。いまは二十五万戸もあるサ高住だが、二〇〇〇年当時、高専賃はまだ東京近郊になく、それなら老人ホームを見学してみよう、ということになった。
 二〇〇四年、妻のお母さんが脳腫瘍を手術。実家の改装に着手したが、リハビリが思わしくない。週末はお見舞いと老人ホーム探しになった。地図を探して訪ねると「空きありません」の繰り返し。(空き検索サイトを立ち上げていれば)ようやく入居したが、二度目の手術後は食事がとれなくなり、流動食をチューブで送り込む経管栄養に。ホームに対応をお願いした。できて間もないホームで初の経管栄養、職員さんも緊張していた。
 二〇一三年、今度は医療関係者として老人ホームを訪問。リクルートスーツの3人と私が医師について歩くのは違和感がある。白衣を着ることになった。すると車椅子のおばあさんたちが手を振る。インターンに見えたようだ。白衣の力を実感した。
 半数が寝たきり。医師が手招きして「これが胃瘻。そっちが酸素」本当に医学生のように勉強させてもらった。
 さて、老人ホームの訪問診療がどのように行われているか、紹介しよう。まずホームの看護師が、前回の診療からの患者の経過を報告する。月二回だから、二~三週間経っている。一人一人読み上げるのに小一時間かかる。それから診察。
 車椅子の患者を訓練室に並べて待っている。(学校の健康診断のようだ)体温血圧を測り、聴診器、問診。車椅子組が終わると寝たきりの部屋を回る。ホームの職員が患者の様子を補足する。薬局から薬剤師が来て同行することもある。その後ろから白衣の四人。
 ホームによって患者数はまちまちだが、午前中に四十人診ることもあるそうだ。医師にもスケジュールがあるが、ホーム側のスケジュールもタイトだ。診察後、昼食、入浴、夕食、検温・・・少ないスタッフで効率よく運営するため、車椅子がエレベーターで渋滞することも考慮して手順が決められている。だから、医師の到着が少し遅れてもクレームになる。
 「〇〇ホームの○号室は電波が入らない」ネットのトラブルに神経質になるのも、時間内に終えるプレッシャーからだろう。そのホームにはWiFiの中継ルータを持ち込むことにした。
 電子カルテで時間短縮を工夫した一例に処方せんがある。高齢者は薬が多い。処方せんは一人数枚ある。四十人診るとして、百枚の束になる。「次の患者さんは〇号室の○○さんです」予め印刷してきた処方せんの束から当該患者を探し出し、微修正することはよくある。薬を換えたり、量を増減したり。手書きで修正し、印を押し、職員に渡す。電子カルテも修正しておく。
 この探す時間を短縮したい。「部屋番号順にできないか」医師からの提案だった。印刷した順に診察すれば探す手間はなくなる。システムから、こういう提案はなかなかできない。
 処方せんをまとめて印刷するプログラムはアイウエオ順にしていたが、部屋番号順も可能に改造した。
 老人ホーム職員は医師に伝えたいことがある。「食事量が減った」「昨夜転んだ」「薬を変えたい」それらを職員が入力できるようにすれば、最初の経過報告を短縮できるのではないか。カルテのメモのように、老人ホームからクリニックへ、メモを書ける画面を作った。
 職員はシフト勤務だから、一日の研修では全員に教えることができない。ITに不慣れな人が多いから、新人をしばらく常駐させ、カルテ閲覧プログラムを書く合間に教えましょう。職員室の隅の机を一つ貸してください。これに応じてくれた管理者が「LAN工事も頼むよ」と言い出す。ホームのパソコンは古く、LANも貧弱だ。新人は素直に引き受けてしまう。相手の懐に入って作るから、喜ばれる画面ができるので、柔軟な対応が必要ではある。
 クリニック側はそんな事情を知らない。「カルテが職員に見えてるらしい」と噂が立ち、クレームが来た。「ホーム側に見られたくない内容も書いてある」というのだ。たとえば、
「患者の手に縛った痕跡あり」
「〇〇さん、医療知識なし。要注意」
 このような、クリニック内で共有する補助的情報は、メモに書くことにしてもらった。
 見られている刺激には効果があった。分かり易いよう書こう、そういう意識が自然と働くようになった。
 老人ホーム側の要望がエスカレートし始めた。「ホーム内で共有するメモも作ってくれ」「何時に何をしたか、介護の記録を入力したい」「それを一日分一覧で印刷したい」「一週間分印刷したい」
 中でも新人が手こずったのは「入居者の二十四時間を一週間の表にしたい」だった。手書きの実物を見せてもらう。「この人、睡眠が短く不規則でしょ。夜中に何度もトイレに行ってる。入居した週なんです」そこで、朝陽がよく射し込む東向きの部屋に替えたそうだ。次の一週間の表を見ると生活リズムがたしかに安定してきた。
 新人の常駐によって、各職員がきちんと入力するようになると、管理者は印刷した報告書を正式なものとしてバインダに閉じるようになった。そこで、有料化を提案しに行った。当初は訪問診療の入居者だけ職員に見えるようにしたのだが、介護記録など、全入居者を対象にし始めた。一人月百円でもいい。少しでも払ってもらえないだろうか。一年も交渉したが呑んでくれない。
 そうこうしているうちに、担当した新人が転職してしまった。ソースコードを見ると、やたらループが多い。とてもトリッキーなプログラムだった。要望に次々対応した様子がうかがえる。カルテの閲覧はいまでも使われているが、その先、新人が開発した画面の維持管理は断念した。
 その管理者も異動になった。「新規に立ち上げるホームで使いたい」と熱心に電話してきてくれたが、場所も遠い。お断りするしかなかった。

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