五反田

 品川には交換機を置くことができない。交換機には直流電源が必要だ。そこで、新設された交換機を、商用運転を始める前に借りて試験をした。白髭電話局もその一つだった。入社の翌年、私も試験を手伝いに白髭に数回行った。一九八二年の南千住は、浮浪者がたむろする、怖い街だった。駅から電話局まで徒歩十五分、隅田川に向かって明治通りを歩く。平行する裏道は絶対使わないよう注意された。メーカでは、女性は必ず男性がエスコートするルールだった。年末の寒い夜、停めてあった車に浮浪者が火を点けて暖をとっていた。再開発をにらんで、新しい電話局を建て、最新の交換機を設置していたのだった。
 あれから八年、高層マンションが建ち、街は変貌していた。人口が増え、交換機もさらに増設していた。その交換機を借りて、窓もない倉庫に数十人が常駐していた。その倉庫にワークステーションを設置しに行った。試験のため主要なベテランが送り込まれていた。彼らは最新リストを切望していたから、ワークステーションをアピールするチャンスだ。
 Sunより安い、SONYのワークステーションを品川と電話モデムでつないだ。4800BPSのモデムは、当時はパソコン並みに高価だった。設定を終えて品川に戻ると、転送が失敗している。再び白髭に行き、手動で転送を実行すると問題ない。「暑い中ご苦労様」と冷蔵庫から麦茶を出してくれた。すると冷蔵庫がブーンと鳴り、モデムのランプが消えた。モデムは米国製で定格が110V、冷蔵庫とタコ足だった。コンセントを変えて、とりあえず解決。倉庫に冷房はなく、冷蔵庫二台が活躍していた。部屋の容量をオーバーしていたのだろう。
 居候では無理がある。試験専用の交換機を置ける、開発部門専用のビルを五反田に建てることになった。コンパイラもワークステーションに移植され、これで設計から試験まで、自前のビル内で完結できる。本格内製の拠点だ。
 五反田には、移転前から数人で通った。品川では、LANの配線で苦労したからだ。ワークステーションを増設するたびに、床を開けて同軸ケーブルを探した。ケーブルがどこにあるか、図面がなかった。当時のLANは同軸に穴を開け、針のようなアンテナを差し込む方式である。穴の間隔は決められていて近すぎると混信する。穴開けが下手だと、ケーブル全体をお釈迦にする。窮屈な床下に半身を埋めて、一発勝負の作業だった。
 内装仕上げ中の五反田は椅子も机もないから、床のパネルを自由に開けることができる。図面通りにケーブルを流し、等間隔に穴を開けるのも簡単だ。ヘルメットを借りてビルに入る。エレベーターは使えない。照明は工事用が所々。工事関係者と一緒に階段を登る。暖房もない暗いオフィスで懐中電灯を頼りに、まるで秘密基地を造っているようだ。この新しいオフィスは自分たちのものなのだ、と強く感じた。
 「五反田ビルの窓はブラインドを降ろしておくように。間から外を覗かぬように」総務からお達しが来た。近隣マンションから恐いお兄さんがクレームしてくるという。のちに、在宅医療に関わり、医師の訪問診療に同行した際、向かいのマンションに寝たきりの患者様がいた。ベッド正面の窓は大きく開け放され、昔のオフィスがよく見えた。ブラインドはちゃんと降ろされていた。
 さて、五反田に移転後も、地方から続々着任してきた。そのたびに机を少し動かして、新たなメンバの机を加えていった。人に合せてワークステーションも増やしていったが、LANが遅くなった。測定器を借りて、同軸ケーブル内の無線パケットを観察すると、パケットの衝突が頻繁に起きていた。(40%越え)パケットの衝突・再送はスイッチングハブなら回避できる。しかし、スイッチングハブはまだ高価だった。もう一本、同軸ケーブルを床下に通し、ワークステーションをつなぎかえて負荷を分散した。今度は机と椅子がいっぱいである。最初の同軸から針を抜き、湿気が入らないようテープで塞ぐ。たくさんのバンドエイドが痛々しく見えた。
 人が増え、ワークステーションが増え、発熱が増える。空調が効かない。上半身ランニングの青年がずらり、ワークステーションに向かう光景を撮っておけばよかった。室温を測りに何度も総務を呼んで、とうとう冷房を増設してもらった。すると今度は電力が不足し、Sunが立ち上がらなくなった。白髭の電話局状態だ。電源延長ケーブルを上のフロアからひいた。後期学園訓練の寮とそっくりになってしまった。
 若い部下の生活指導も大変だった。試験が深夜からだと「夕飯食べて来まーす」と数人で外出し、赤くなって帰ってくる。五反田駅のホームで寝ていた同僚を発見し、運んで戻ってくる。「これから試験でーす」と守衛に告げて、仮眠室に直行する。二百人もいると毎日何かやってくれる。
 会議室にも人を入れたので、打合せスペースがない。そこで、主要メンバとはランチでコミュニケーションをとることにした。週一、二回、十数名で外出する。品川では、駅の反対側の「つばめグリル」まで長い地下通路をワイワイ歩いた。五反田では、お店が近くにたくさんあった。会社の食堂は狭いし、聞かれたくない話や本音の話をするには、昼食を過ぎたレストランのほうが良かった。ランチ代は、「話を聞きたい人が払う」あのサラ金社長の台詞だ。五反田時代の昼食代は妻に話せない。しかし、ランチでの雑談は有益だった。
 高専から電電公社に入り、交換機保守からプログラム開発にやってきた特攻隊員たちだが、一人前になりつつあった。雑談情報である。あるバグがどうしても解明できず、メーカに依頼したことがある。当日、ラックに隠れてメーカのやることをスパイしていた奴がいた。「あんな方法でバグを見つけていたとは」それでいい。プロから盗めるようになれば、もうプロだ。嬉しかった。
 大卒新人がいきなり七人配属されたことがある。研究所では、部下に新人がついても一人。七人の育成をどうするか、ベテランたちは大卒新人を引き受けたがらないので、質問チケットを作った。ちぎってベテランに訊きに行く。チケットを使われては、ベテランも断ることができない。残りを見れば質問していないことにも気づける。
 地方にも開発拠点を作り、出身者を順次戻していくようになった。以前は毎月、歓迎会だったが、送迎会も兼ねるようになった。拠点は順次増えていき、七つになる。地方に設置したワークステーションは、五反田と専用線でつないだ。イントラネットの先駆けである。最初は64Kbpsだった。この速度では、地方から五反田に、各人が直接アクセスするのは無理で、基本、五反田のファイルすべてを圧縮し、夜間、転送した。それでも量が増えてくると、夜間では間に合わなくなり、専用線の速度をアップしてもらった。
 日中は、地方で修正を終えたソースを五反田にコピーし、コンパイルする。ここで不思議な現象を経験した。ある地方だけ、必ず未来なのだ。NTPを使ってサーバの時計を合わせてみても、コピーすると未来。ファイルの更新時刻を見て自動でコンパイルしていたが、その地方が担当するモジュールはどうしても毎回コンパイル対象になってしまう。原因はいまだに分からない。SunのOSが何度かバージョンアップして、いつの間にか解消した。OSやネットワークにも都市伝説があった。

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