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ダイヤルトーンは出たか?

 電話交換機のプログラムは機能毎に五十以上のモジュールで出来ていた。新総裁の「研究者も開発を」により、四つをメーカから引き取った。私は、受話器の上げ下ろしを検知する小さなモジュールを担当することになった。ちょっと歯ごたえがないなと思っていたら、急に先輩が退職することになり、ダイヤルを受信するモジュールも追加になった。こちらは十倍大きかった。
 三カ月の現場実習から戻ると、いよいよ開発だ。しかし、開発会議が朝九時から夜七、八、九時になることも。ようやく端末に向かうが、気がつくとキーボードを枕にしている。
 研究室にオンライン端末が入ったのは最近で、しかも一台だけ。それまでのコーディングは紙に鉛筆で、カードパンチは業者に頼んでいた。せっかく導入した端末だが、メインフレームは応答が遅く、エンターを打って待つ間につい眠ってしまう。「E」で埋め尽くされた画面に何度がっかりしたか。端末はもうタイムアウトしていて、入力はパーだ。
 新しいデジタル交換機は、既存のアナログ交換機をベースに開発する。音声をデジタル化して交換するハードが変わるが、流用できる部分は多かった。だが、既存を誰も教えてくれない。
 リリース後三十年、日本の電話を支える交換機である。全国導入に先立ち、現場から長期出張で大勢が勉強に来ていた。地下の倉庫を臨時の事務室にして、夜になると鍋の匂いが立ち上ってきた。試験用交換機の準備などを手伝いながら勉強する。一部はコーディングや試験工程にも参加した。試験工程が始まるまでは暇なので講習会をやることになり、なんと私が講師に。いや、知っているのは担当している2モジュールだけである。次々と質問の手が挙がる。
 「いま動いているアナログの交換機と、今度のデジタルは、どこが違うんですか」
 なにやら教科書を見ながら質問している。既存のアナログ交換機には、動作を詳細に解説した教科書があったのだ。現場で保守している人からの質問攻めで、私は既存を勉強させてもらった。そして、新交換機の教科書作りも手伝うことになる。
 コーディングが始まると、本社から「ダイヤルトーンは出たか?」と問い合わせが来た。受話器をあげたときに聞こえる、あのツーという音だ。交換機の開発はざっと、検討に一年、設計に一年、試験に一年。試験が始まり、ダイヤルトーンが出ればハードとソフトが一体で動いている。完成も見えてくる。家の建設にたとえれば棟上げ式である。
 ダイヤルトーンを出す前に「受話器を上げた」ことを検知しなければならない。交換機は二百ミリ秒毎に発信を検知している。検知して、ダイヤルを受信する準備が整って、初めてダイヤルトーンを出す。ここまで数千ステップ動いている。その中で私の担当するのは百ステップ程。それもほぼ過去のプログラムの流用だから、問題ないはず。四メーカのチーフも見守る中、息を止めて交換機を立ち上げる。ところが、すぐダウンしてしまった。メーカがメモリを調べ始める。数百の電話が一斉に発信している?
 試験用の電話は二台しかつないでいない。受話器も上げてない。もしやと数行のパッチを書いた。ハードの仕様書には「発信時は1」とあったのに、実際は逆? 検知論理を反転してみると、ダイヤルトーンが出た。
 ダイヤル受信はもう少し複雑で、何度か手直ししたが、そこから先は、いろいろなダイヤルを大勢が試していく。試験が本格化する。そして、さあ、電話をかけるデモができる。試験用交換機の周囲に紅白の幕が張られ、白いテーブルクロスの上に電話機2台がうやうやしく置かれ、説明パネルが下げられる。公開日には、本社やメーカから関係者が続々やってきた。研究所の幹部もデモの列に並んでいる。「デジタルの通話、お試しください」ダイヤル「1」を押すだけで隣の電話にかかる簡単なデモだが、「おお、これがデジタルか」などと感動している。知らない人が見たらユーモラスだったろう。
 デジタル化で保守コストを大幅に削減できる。民営化後、電話料金がどんどん下がった最大の要因はデジタル化だ。アナログでは、装置のあちこちで日常の調整が必要になる。私は現場実習で、アナログの中継回線の周波数調整や交換機の接点劣化を体験して実感した。
 さて、公開日、受話器をとり、プッシュホンを押す。これを私がやればうまくつながるのだが、他の人がやると、何回かに1回交換機がダウンしてしまう。微妙なタイミングか? 再現しないから解析ができない。まあ、本番リリースはまだ先だ。試験途中の公開である。とりあえず私がダイヤルして、この公開日は乗り切った。
 平日は八時に出社し、終電で帰宅。土日は九時出社で、十一時に退社。超過勤務は月百時間を超えたが、辛くはなかった。むしろ水を得た魚だった。そんな忙しい中、研究所ではスポーツが盛んだった。ソフトボール、バレーボール、バドミントン、駅伝、綱引き大会まであった。交換プログラム研究室は人数が多かったので予選会まであった。現場からの応援者には元国体選手までいて、レベルが高かった。中学は陸上部と水泳部、駅伝の選手にも選ばれた。クラス対抗は中学高校とバレーボール。公募試験前はジョギングを続けてきた。その成果か、いつも駆り出された。
 そこで、トレーニングも兼ね、廊下を走った。研究所の廊下は、大きな装置を運ぶことを想定して広く、滑り止めが施してあったから、気持ちよく走れた。
 会議に出す資料は十数部コピーしなければならない。まだゼロックスは高価で、基本青焼きである。コピーしながら、その日の資料を予習した。
 ある日、コピー室から走って戻る途中、廊下で何かにぶつかった。いつものコーナーである。この時間ここを歩いている人は居ないはず。しかし、私は黒スーツの大男に抱き止められていた。男は小さな声で「廊下を走らないように」と言った。
 その日は午前中に皇太子の視察があったことを思い出した。いまの上皇様である。黒スーツは見学コースを下見中のSPだった。
 急に不安になった。以前の公開日、所長は交換機をダウンさせたからだ。皇太子へのデモはきっと所長がやるだろう。
 視察の間は部屋から出ないよう言われ、気をもんだが、交換機は無事だったらしい。私が廊下でSPにタックルされた件は笑い話になったが、所長が最後にお見送りするとき、皇太子はこうおっしゃったそうだ。
 「きょうはいろいろ見せてくれて、ありがとう。ところで、どれがデジタルだったのですか?」
 一九八二年の話である。

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