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T先生と再会

 その土曜の昼過ぎ、緊急検査が出た。通常週末は検査をしない。往診でも検査はしないのに、土曜の往診で検査をしたのなら、よほど危ない患者なのだろう。検査画面をクリックすると、T先生ではないか。NTTコムウェア時代の研修講師だった。
 着任したばかりの新社長が、部長たちがたるんどる、と命じた外部研修だった。二年毎に降ってくる社長の、また思い付きか。安ホテルで三日間の缶詰めと聞いてうんざり。ところが、研修が終わったときには、帰宅してすぐ妻に受講を勧めた。それほど、T先生の魅力にやられてしまった。
 当時、私は失敗プロジェクトを担当していた。五億円以上の赤字が見込まれるプロジェクトをいくつも担当していた。しかし、途中から介入して好転できるものではない。加えて、この意味不明な研修である。

【研修初日】小さな研修会社の代表で、唯一の講師でもあるT先生は、鋭い眼光で私たち二十人を見渡した。「腕組みしない。手は膝」の一喝から研修は始まった。おおコワと思った。

 検査結果は翌朝返ってくる。明日改めて往診するというので、T先生がじつはどういう患者なのか、医師にこっそり伝えることにした。

【研修二日目】先生は自身の半生を語り始めた。特攻で日本を救うつもりの軍国少年は、ひたすら空を見上げ、眼を鍛えたそうだ。「それで、こんなギョロ目になりました」だが、徴兵前に敗戦。口減らしのため神学校に行かされた。イタリア人神父は厳しく、ラテン語などさっぱり分からない。自分にむち打って勉強、ようやく卒業して、教会に赴任する。嬉しくて夢中で働いた。

 時代も分野も違うが、私の半生も似たようなものと思った。公募試験で研究所に入り、交換機の開発に夢中になり、シリコンバレー支店を任された。
 ところが、若い神父は絶世の美女に出逢ってしまう。教会に併設した幼稚園の保母さんを、運命の女性だと思った。しかし、カトリックの神父は結婚できない。結婚するには、神父の地位を捨てるしかない。ローマ教皇まで除名嘆願に行ったそうだ。
 ようやく結婚したが、無職になる。職を転々とするが、どこも長続きしない。「にやけてんじゃねえ」と首になったそうだ。神父時代は、笑顔を絶やさない訓練した。それが原因だった。そこで、鏡を見て毎日、厳しい表情の練習をする。
 妻子を食べさせるため、たどり着いたのが研修会社だった。厳しい表情のできる元神父、高度経済成長時代にはうってつけの研修講師だった。時流に乗り、事業は成功した。
 二日目はここまで。食堂に降りて行くと、運命の女性が鍋を用意している、という趣向だった。絶世の美女も歳を重ね、気さくなおばさんになっていた。(いや、明日往診する医師に、こんな話は必要ないか)

【研修三日目】グループ討議。アウシュビッツの囚人の中に神父がいた。ガス室に連行される日、神父は兵士に「私の代わりにこの者たちは救ってくれ」と嘆願した。有名な話らしい。
 「さて、みなさんは、他人のために死ねますか?」うーん、娘のためになら全然死ねますけど、とおどけたら恐い顔で、「他人を信じ、本当に愛するならば、死など恐くない」と一蹴された。アウシュビッツの神父は、一人ガス室に入って行く。

 でも、あいつら勝手に赤字受注してきたんですよ。そんなプロジェクトに命をかける気にはなれません。「それでも愛しなさい」連中聞く耳を持たないんですよ。「相手を真正面に見て、何度でも訴えなさい」
 明日往診する医師には「T先生は元神父、死は恐れていないと思います」と連絡した。迷ったが、そう信じたかった。
 往診を終えた医師が長くないと知らせてくれた。自宅で最期を過ごすつもりで家を改装していたが、医師は危険と判断し、病院に搬送したという。早く会いに行ったほうがいい。
 妻が研修を受けたのは、両親を亡くし、仕事も替わったあとだった。研修後、奥様がアドラーの勉強会を主催していると知り、そちらにも参加した。そういえばここ何年か年賀状が来ていない。息子さんを亡くしたせいだろうと思っていたのだが、T先生は癌で入退院を繰り返していた。
 妻のお父さんは食道癌だった。喉にチューブが入り、筆談になった。先生はどうなっているだろう。お父さんは入隊した年に終戦だったから、先生と同世代である。
 夫婦で病院を訪ねた。病室を恐る恐る覗き込むと、先生は車椅子にいた。事前連絡していないのに、まるで待っていたかのように「よおう」と手を挙げた。「君が電子カルテを開発したんだってねえ」医師がそんな話までしていたとは。先生の握手はまだ力強かった。「本当にありがとうございました」奥様が深々と頭を下げた。いえいえ、ただプログラムを書いただけ、サーバを運用しているだけ。検査一件だったから名前に気づけた。これは神様の導きです。
 ベッドの横はお見舞いの品やカードで埋め尽くされていた。しかし、それらは神父時代の関係者で、研修会社時代の、それも受講生で訪ねてきたのは「君たち夫婦が初めてだよ」と、とても喜んでくださった。
 「病院の中を案内しよう」先生の指示に従い、見舞客をぬって車椅子を押す。「ここが休憩コーナー、なにか飲みなさい」久々にやってきた息子夫婦の役を演じた。
 フロアを一周して病室に戻ると、先生はいきなり「そこに座りなさい」と私たちをベッドに座らせた。そして、なんと説教が始まったのである。「あの日、宿題を出しましたよね」
 退職前に趣味を始めておくことが重要という説教のあと、五十歳から始める趣味を宣言させられた。しかも、一年後に経過報告するためのハガキ付きである。私は、妻と茶道を習い始め、一年後ハガキも出した。
 研修の最後に「もう一つ宿題があります」帰宅したら、奥さんに『愛してる』と言うこと。ホテルの玄関のマイクロバスまで、先生夫妻は見送りに来て念を押した。
 フロア一周の間に、私が守っていないことを見抜いたかも知れない。亡くなった息子さんが重なっていたのかも知れない。とにかく、元神父の「愛」に関する熱い説教は、もし奥様が割り込んでくださらなかったら一時間でも続いただろう。奥様は、病院の玄関からいつまでも手を振ってくれた。しばらくして訃報が届いた。
 あの研修から退職、そして電子カルテに携わるまで、この十数年間は研修だったのではないか。ガス室に向かう先生がこちらを振り返った。「この者を救ってくれ」とでも言うのかと思ったら、口元が「君は最期に、誰に何を説くんだね」と動いた。

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