在宅医療では介護保険も

 在宅医療では介護保険も請求できる。医師が介護者に医学的情報を提供する対価である。電子カルテ開発を始めた当初は医療保険のみで、介護には目もくれなかった。(そんな余裕はなかった)しかし、介護も医療の一割程になる。在宅医療を中心に経営するなら、重要な収入源だ。
 外来がメインだが、往診も少人数やっているクリニックがある。高齢の患者が通院できなくなり、好意で訪問診療を始めた。そのようなクリニックでは、介護保険は請求していない。理由は人材だ。
 医療も介護も両方請求できる人はまずいない。病院や外来クリニックでは医療保険しか扱わない。介護施設や介護事業者では介護保険だけだから、請求事務の人材は完全に分かれている。十数人の在宅のために経験者の募集から始めてもペイしない。医療と介護、患者にとってはシームレスだが、提供する側は別世界だった。
 医療保険しか扱えない電子カルテが大半だ。介護のために別途、請求システムを導入する必要がある。介護のために人を雇い、システムを導入するのは、在宅患者が百人を超えるあたりからか。医師一人で外来と掛け持つことは、もう難しい規模だ。
 介護請求は、とりあえず無償のソフトで始めよう。在宅をメインにしたら、急に患者が増えてきた。看護師も事務も増員だ。売上の大半を占める医療が優先され、介護は・・・
 「もうやってられない」と奇声を上げる人がいた。彼女は介護保険請求の担当者で、そのクリニックでは彼女が唯一だった。クリニックの中で開発を始めたばかりで、事情が分からない。介護が医療とそんなに離れているとは知らなかった。
 「ねえねえ、本当使いにくいのよコレ」と彼女が愚痴をこぼしにやってくる。ほー、これが介護保険の請求システムか。(無償じゃあ、そんなもんでしょ)聞き流すことにした。
 「私一人で千人請求してんの、医療の人たちは百人じゃない」と不公平を主張する。たしかに作業量は売上と比例しない。しかし、内心異論もある。まず彼女には、愚痴をこぼしにくる余裕がある。年休もしっかり取得している。医療事務のスタッフは電話対応もしている。保険証の確認、訪問日の変更、薬局からの問い合わせ、物品の手配など、請求以外の仕事も多いのだ。週末も電話対応のため交代で出勤する。介護請求しかやらない彼女が超多忙なのは月の半分なのだ。
 週末、東京国立近代美術館でランチした。食後、目の前の北桔橋門から皇居に入ったら、彼女を見かけた。いや、シックなワンピース?他人の空似だろうと思った。ところが、天守台に登ったところで、再度遭遇してしまった。
 江戸城の天守閣は焼失し、台だけが残っている。天守台の上はただ平らで何もない。連れと談笑していた彼女が周囲を見渡したとき、目が合ってしまった。私は妻の腕をとり、天守台を降りた。しばらくして彼女が退職することになった。天守台の件、私は他言していないが、なんだか責任の一端を感じてしまった。
 彼女は後任に引き継ぐと言ったが、誰がやるか。在宅で使える介護の請求項目は限られている。難しくないと彼女が言っても、これまで散々大変だと宣伝してきた。それに、医療組から左遷になると感じた人もいただろう。各クリニックで医療も介護も責任もって請求する、と決めたことはよかった。彼女は一人で四クリニックも担当していた。
 引き継ぎをしてみると、問題の本質が見えてきた。介護度だ。「要介護3」などというアレ。介護請求上は重要だが、医療保険では関係ない。医師は、介護認定の助言を求められることはあるが、認定自体は審査会が行う。もちろん、介護状態を知ったうえで診療すべきではあるが、電子カルテに介護度の欄は通常ない。
 ところが、「訪問看護指示書」や「マッサージ同意書」には介護度を記載する欄がある。医師は事務スタッフに「〇〇さんの介護度は?」と訊くことになる。事務スタッフが介護保険担当に確認する。
 介護保険は介護度を中心にできているが、認定には時間がかかる。そして、介護度が変化すると、保険も変わる。保険証の番号まで変わってしまう。だから、介護請求担当は、介護度にピリピリしている。
 訪問看護や訪問マッサージでは、介護保険も使う。指示書や同意書に間違った介護度を記入しても、先方でも別途点検するだろうが、クリニックの名折れである。事務スタッフは最新の正確な介護度を記入したい。
 介護度の変更はケアマネジャーが把握している。しかし、ケアマネジャーがいちいち連絡してくれるとは限らない。保険証を定期的に確認するしかない。訪問時に看護師に写メを頼み、介護の保険証については彼女に連絡する。
 そんな多段の伝言ゲームは廃止しよう。正しい介護度が管理されているのは、介護請求システムなのだ。そこから最新の介護度を電子カルテに自動登録することにした。彼女の退職が、医療・介護の壁を壊し、介護に踏み出させることになった。
 介護請求システムの患者データベースを電子カルテで読み取ると、やたら重複する。彼女の金切り声の原因はこれだったのか。新しいクリニックの介護請求を始めるとき、以前のクリニックから患者を移す。電子カルテでは「クリニック異動」を可能としたが、クリニック単位の介護システムでは、データベースを丸ごとコピーすることで引き継いでいた。異動しても、以前のデータが消えずに残る。四つのクリニックを一人で担当していると、間違えて異動前のほうで請求操作してしまうミスも起こる。同姓同名、生年月日まで同じ患者がうようよいるのだ。発狂しそうになる。
 介護請求システムの患者データベースを電子カルテと完全に合わせよう。各クリニックに出向き、パソコンを借り、ひたすら重複患者を消した。
 患者は増え、クリニックも増え、「介護請求システムが使いにくい」のクレームが各クリニックから来るようになった。(一人の金切り声ではもうない)よし、介護まで開発しよう。
 振り返ると三年かけて介護保険を勉強してきたことになる。カルテと連動している介護請求システムは、まず他社製品にはない。そして、医療と介護を一枚の請求書にして発行する、という念願を達成するのに、さらに一年かかった。
 願わくば、彼女に感想を聞きたいものである。クラウド型だから、自宅で子育てしながらでも請求事務ができる。もしかすると、どこかで使ってくれているかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?