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母の補聴器

 母の難聴が進行し、いよいよ補聴器が不可欠になった。デパートの補聴器ショップに連れて行き、スイス製を試すところまで、とりあえず、そこまでこぎ着けた。ここまで十年。
 じつは母は安い補聴器を2台持っている。しかし、装着しない、してくれない。
「騒音で聴こえない」
「ピーピー鳴ってうるさい」
「耳の穴が痛い」
「すぐ落ちる」
「バッテリー交換が難しい」
(それに格好悪い)理由は山ほどある。
 スイス製の補聴器は小さい。耳たぶの裏に隠れてしまう。小さいが、高度なデジタル処理をしている。難聴の周波数に合わせて増幅してくれる。雑踏を検出すると自動的にボリュームが下がる。人の話し声が聴きやすいよう調整してもらった。購入後も定期的にメンテしてくれる。
 私はアップルのイヤホンAirPodを愛用している。ノイズキャンセリングモードにしていると、周囲の騒音が抑制され、コンビニ店員の声が聞き取れないほどだ。最新のノイズキャンセリングのデジタル処理には感服するが、スイス製の補聴器は、そのAirPod の20倍と高価だ。
 じつは十年前にも補聴器ショップに連れて行った。値段を聞いて母は尻込みしてしまった。壊したら、失くしたら大変。とても装着する気になれない。そう言って、安い補聴器を買った。
 しかし、安物はすぐ抜けて落ちる。機械を首にぶらさげ、両耳にコードが伸びている。眼鏡や帽子でコードを引っかける。そこで、片耳タイプを買った。コードが一本なので、ひっかかって抜け落ちる。外出時は特に付けてほしいのだが、マスク、帽子、スカーフなどが補聴器の天敵となる。
 AirPod はコードレスだ。マスクやマフラーでも問題ない。走っても落ちない。ステイホームになってジョギングを始めたが、AirPodが落下したことはない。スイス製は耳たぶにかけるタイプだし、落ちることはないと思うが、それでも母は2週間試したいと言った。
 補聴器のワイヤレス充電器は、母の枕元にセットした。起床したら付けてほしい。家の中でも補聴器を使ってほしい。一日中つけることで耳を慣らす。室内か室外かは補聴器のほうで判断してくれる。
 翌朝、「補聴器装着できました」とメールが来て安心した。その翌日、「具合いいです」。ところが翌日、「ピーピー鳴る」と言ってきた。
 私はAirPodを付けたまま寝てしまうことがある。寝返りをうって耳を枕に沈めると、ノイズキャンセリングがうまくいかず、ピーピー鳴ることがある。ハウリングだ。音を増幅する補聴器もハウリングを起こすはずだ。
 スイス製は細いチューブの先についた米粒ほどのスピーカーを耳穴に押しこむタイプだ。米粒が耳穴から出てしまうと、耳たぶ裏の本体にあるマイクと音響的に結合し、ハウリングが起こるかもしれない。
 このスイス製のように、米粒スピーカーと本体が分離しているタイプは、装着に少しテクニックが必要だ。AirPodのような一体型なら装着は容易だが、より小型軽量化が必要となり、値段が上がる。髪が長い女性は、分離タイプのほうが目立たないメリットもある。
 実家に行って装着の様子を確認しよう。それから三面鏡を注文した。装着を自分で確認できるように、三面鏡を持って行こう。
 三面鏡をネット注文して、訪問スケジュールを検討していたら、またメールがきた。台所に入ると鳴るという。「恐い、何かの電磁波ではないか?」コンピュータを内臓している補聴器だ、ありうる。
 しかし、実家の台所には、電子レンジと冷蔵庫しかない。電子レンジを使っていなくても、台所に入っただけで鳴るのだから、原因は冷蔵庫か。補聴器を狂わすほどの電磁波が出ているのだろうか。そんな事例があるのか、補聴器メーカに問い合わせてみようと思った矢先に、次のメールで原因が分かった。
「ところで、冷凍庫のものが解けていたので、急きょ調理して冷蔵庫に移しました」
 冷凍庫のドアがちゃんと閉まっていなかったらしい。
「ピーピー」は、補聴器ではなく冷蔵庫の警告音だった。おそらく以前も警 告音は鳴ったことがあっただろう。これまで母は、それに気づかなかったのだ。高性能な補聴器を付けたことで、久しぶりに聞いた。しかし、それが冷蔵庫の警告と認識できず、補聴器のハウリングと思い込んでしまった。
 笑いながら真犯人について解説した。母はしばらくポカン。難聴は、単に音が聞こえないだけではなかった。そういう音の存在さえ気づけなくなる。
「そうそう時計のチクタク、聴こえていない?」
「そういえば聴こえる」
 周囲の生活音を認識できるようになったのだ。
 昨日は、台所に入ると補聴器が鳴るので、怖くて避けていたのだそうだ。冷凍食品が解けていることに気づいても、冷蔵庫の警告音とは思いもよらなかった。
「聴こえないって怖いことだねえ・・・」
 この事件のおかげで、母は補聴器の必要性と有用性を実感、買う決意をしてくれた。高齢独居を続けたいなら、警告音は重要だ。ホイッスルケトルの音、ガス漏れ警報器の音など、聞き逃せば命にかかわる。
 電話には増幅器を付けた。玄関の呼び鈴には点滅ランプを付けた。しかし、あらゆる製品に難聴者対策を追加するむことは難しい。それより本人が補聴器を付けるほうが、ずっと万能の対策だ。

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