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放送劇

 私は「ラジオっこ」であった。親がテレビを買わない方針で、中学になるまで家にはラジオしかなかった。小学生の頃のラジオ番組は、いまとはずいぶん違っていた。落語や浪曲が流れていた。お便りを読むスタイルもまだである。夕食の前後には子供向けに、探偵物や忍者物の放送劇を各局並べていた。十五分程度の短い連続放送劇である。好きな番組を追いかけて放送局でザッピングした。(ダイヤルを回してチューニング)
 母は森繁久彌の「日曜名作座」を欠かさず聴いていた。放送時間が遅く、私は聴きながら眠ってしまうことが多かった。FMが受信できるラジオがやってくると「FMシアター」に夢中になった。AMでは、海外の放送が背後から聞こえていたが、FMでは静まり返る。ドラマの緊張感が増した。電灯を消し、床の中で、真空管の微かな光で鑑賞する最高の「音シアター」だった。
 FMシアターは基本的に大人向けだったが、稀に子供が主役の作品もあった。私はある作品に夢中になり、放送劇を自分で作ってみたくなった。
 中学二年のとき、SONYの家庭用テープレコーダーを目にした。録音ができる機械というものを知り、これで放送劇が作れる、と胸が高鳴った。そのテープレコーダーが中学にあることが分かり、私は演劇部に入る。演劇部で放送劇を作ろうと考えたからだ。
 女子ばかりの演劇部に、三年生になって突然入部し、いきなり「放送劇を作ろう」というのは、さすがに無理があった。テープレコーダーやマイクの使い方も知らなければ、そもそも演劇を知らない。台本の書き方も分からない。そこで、まず演劇部本来の年間行事である文化祭公演に参画することにした。
 演劇部の顧問の先生には感謝している。私にたくさんの台本を読ませ、また台本を書いてみるよう誘導してくれた。演出も、舞台装置作りも自由にやらせてくれた。そのうえ、私は「悪魔」の役で舞台出演も果たす。体育館を埋め尽くした大観客から万来の拍手をもらった。それでも、放送劇に未練があった。
 高校に入学し、とりあえず入部した美術部がつまらなく思えてきた頃、昼休みに放送劇が流れた。校内放送で放送劇、オリジナル作品だった。高校生が主人公、面白い。技術レベルも高い。こんな放送劇を、この高校では創ることができるのか。すぐに放送室に向かった。
 放送部に入った週だったと思う。コンテストに参加する放送劇を録音するという。八分間の「銀河鉄道の夜」だった。役者の応援を演劇部にも頼んでいたが、演劇部には男子がいない。入部早々、銀河ステーションのアナウンスをやって、と言われた。
 一般生徒の下校が終わり、校内が静かになって録音を始める。練習を2回、録音を二回。放送劇はあっという間に完成した。機材がそろい、スタッフもそろっている。私の夢は目前に迫ってきたと感じた。三年生の先輩が作ったこの作品は、コンテストで優勝する。
 次に放送劇をつくる機会は、しかしすぐには来なかった。初夏にはNHKの高校放送コンテストがあり、夏休みには合宿、秋には運動会と文化祭の裏方。そして、ようやく初冬になって「全関東高校放送劇コンクール」になる。あの昼休みに放送された先輩の作品は、ここで去年準優勝したものだった。
 オリジナルの台本は完成までに一カ月もかかった。タイトルは「暗黒の彼方」で、宇宙船が飛び去って行くイメージ、そこで行き詰まってしまった。三十分という長さに苦しんだ。一体どれだけ書けば三十分になるのか。朗読ならだいたい何文字で何分と分るが、放送劇には曲や効果音も入る。
 そんな中、先輩が持ってきたレコード、ピンクフロイドの「原子心母」に心を奪われた。休み時間毎に放送室に駆け戻り、レコードを聴いた。トランペットが頭の中で鳴る。ドラムに合わせて机を叩いたら、現国の授業中ではないか。
 「原子心母」にめぐり合ったことで、台本は急速に具体化していった。惑星から資源を地球に運ぶ巨大な宇宙船に乗員はただ一人。宇宙船の航海は人の一生ほどもある。長い航海の話し相手はコンピュータ。宇宙船もコンピュータも放送劇では簡単だ。宇宙船の長い廊下を歩く音は、放送室前で録音できる。暗黒の彼方に飛び去っていく音は、理科室から発信機を借りてきてエコーを付加した。真空では本当は無音だが、放送劇では音で景色を造る。
 台詞は最終的に一晩で書き上げた。台詞を録音するときに、曲や効果音をミキシングする。三十分の放送劇の生放送を録音するイメージだ。ストップウォッチとにらめっこで、曲や効果音の長さを調整し、二テイク目で完成とした。
 二年生は受験の準備でコンクールに参加しない。一年生だけで作らねばならない。演劇の経験者は居らず、女子アナはDJか朗読が志望。放送劇には誰も関心がない。強引に私の夢につきあわせてしまった。
 いまなら、台詞をばらばらに録音し、曲や効果音と合わせて自在に編集できる。しかし、当時の機材はテープデッキ2台、レコードプレーヤー2台だけである。テープデッキの1台は録音用だから、ミキシングできるのはテープ1台とレコード2台だけである。効果音をテープに収め、台詞の収録時にミキシングする「一発録音」しかなかった。しかも、下校後、校内が静かになってから収録するのだから、テイクは二回までがせいぜいである。
 二テイク録って女子部員には帰ってもらい、それからテープを聞き返して、不要な音をハサミで取り除いた。こうして完成したのはコンクールの前夜だった。
 テープは、当日、コンクール会場で提出すればよかった。部長のTが持ち帰り、翌朝会場で落ち合って提出することとした。帰宅すると電話がかかってきた。テープを電車に置き忘れたという。よほど疲れていたのだろう。網棚に載せたまま下車してしまった。駅員に頼んで探してもらい、車庫まで取りに行ったらしい。深夜になって無事発見の連絡があった。
 コンクール会場に来ていたのは三十人程であった。その大半が前年度優勝校の放送部員である。多くの学校はテープを提出すると帰宅していた。朝提出し、結果発表は夕方である。審査を待っているのは辛い。自宅が遠いTには帰宅してもらい、比較的家が近かった私が発表まで残ることにした。
 結果は優勝だった。まったく想定していなかった。ただ審査員の講評を聞きたくて残っていた。大きなカップと盾と表彰状を、どうやって持ち帰るか戸惑った。週明け、意気揚々登校してみたが、周囲のリアクションは薄かった。顧問は「あれは2001年宇宙の旅のパクリだよな」と言った。私はまだ観ていなかったが、反論する気にもならなかった。
 夢だった放送劇を、オリジナルで作り、それが優勝したことで、私は有頂天になっていた。さあ、二年になれば、日々の番組もすべて私たちのものだ。天下を取ったような心持ちだった。
 ところが、進級したとたん、同期の女子アナ三名がそろって退部してしまった。一瞬にして男子三名だけになった。次の放送劇どころではない。日々の放送をどうするか。
 放送部は、朝と昼に番組を流していた。月曜から土曜まで週十二本である。女子アナが番組を担当し、男子が機械を操るのが通例だったが、しかたがない。とりあえず男子でDJをやってみた。しどろもどろの男子DJに「何があった?」と問い合わせが来たほどだった。
 番組に加えて連絡放送をやらねばならない。電話の取次ぎや来客のお知らせを放送する。そして、下校放送も生で放送していた。
 三年生も心配して連絡放送を応援してくれた。一年にも急きょ番組を担当してもらった。これまでは二年になって初めて担当できるしきたりだったが、そんなことは言っていられない。
 だが年間を考えると、やはり二年の女子アナを獲得したい。放送室にレコードを持ち込んでくる生徒がいた。新譜を放送するとやってくるファンもいた。校内の隠れた音楽喫茶のようなものだった。自習になればドアを閉め、こっそりレコードを聴いていることもできた。そういう来訪者に片っ端から「DJやってみない?」と声をかけた。
 再び全関東高校放送劇コンクールの季節がめぐってきた。一年生、新たな二年生女子アナ、そして放送室にたむろする準部員たち、彼らを最大限使って放送劇を創ろうと考えた。
 台本執筆は前回以上に難航した。優勝のプレッシャーがあった。審査員にうけることを意識した。石油危機や自殺という問題を取り入れることにした。前回は「暗黒」だったが、今回は「赤」をシンボルカラーとした。社会の必要悪に目をつぶって生きていく大人たちは「赤い飲み薬」を飲んでいる、という設定である。
 一発録音も改革したかった。一発では複雑なミキシングは困難だった。場面毎に録音し、それらをミックスして完成させる方法なら、やり直しがきく。出演者が多い今回、一発録音では何テイク必要になるか分からない。三台目のテープデッキを借りてくる算段をした。
 曲は使わず、効果音だけにした。雑踏、足音、ドアの軋みなど、ドキュメンタリーのテイストをねらった。果たして審査員は理解してくれるだろうか。編集を終えたのは、やはりコンクールの前夜だった。それが二連勝となった。
 コンクールの審査員を務めたNHKのディレクターが、後日放送部を訪ねてきた。その人が担当していた「高校生の広場」という番組に、私は出演させてもらうこととなる。

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