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「どう?」

 当時の電電公社には、本社採用と地方採用があった。官庁のキャリア・ノンキャリアに似て、本社採用はたった百九十人。何人を公募で採用したのか、その中で研究所に配属されたのは何人だったのか、分からない。前年だったら、公募の私が研究所に配属されることはなかったのかもしれない。
 前年、電電公社では空出張などの不正経理に端を発し、総裁を外部から招き、民営化へ動き出す。私の入社式は新総裁の最初の入社式で、報道陣が押しかけた。新人に無関係と思っていたが、新総裁が人生を変えた。
 電電公社の高コスト体質は人が多いことが最大の原因。合理化して減らすには「デジタル化」が鍵となる。実際、大幅削減できた。そして、今後は通信サービスの付加価値勝負となる。そのため研究者も開発に手を染めろ、と新総裁は激を飛ばした。人事部は困ったのだろう。開発は研究者に人気がなく、特にプログラム開発は最悪だった。配属先が決まったとき、「かわいそう」と慰めてくれた同期もいた。
 交換機開発の黄金時代だった。電話、ISDN、パケットなど、複数システムを並行して開発していた。それぞれ数百億円規模である。中でも導入数が最も多い交換機の開発に私は配属された。
 研究所で開発しても導入されない交換機もある。また、導入は一台だけ、試験的で終わる例も、数年で廃止になる例も。研究要素が強い交換機たちである。研究者にとっては、そういう開発のほうが好まれた。
 一方、私が配属されたのは、すでに全国導入されていた交換機をデジタル化するという、まったく実用的なものだった。この交換機はその後三十年間、NTTの主力として稼働したが、特許や論文のネタは多くない。そういう開発だから、研究所が割いた人員は驚くほど少なく、足りない管理要員などは事業部に、メーカ四社には最高の人材を要求した。
 検討がスタートしてすでに一年が過ぎていた。私が配属されたときには基本設計がほぼ完了していた。「研究者もメーカと一緒に開発を」という新総裁の号令に、新人をアサインするちょうどいいタイミングだった。
 研究所では朝、新人がお茶を入れる習わしがあった。茶碗を洗い、お茶を入れて机に置く。誰がどの茶碗が誰ので、お茶の好みは、を覚える必要がある。交換プログラム研究室は、二つの大きな開発が並行しており、本社や支社から応援が来ている大所帯だった。朝、茶碗を洗っていると「私たちでやりますから」と、現場から来たばかりの二人が代わってくれた。後日、「堂山さんは何年入社ですか」と聞かれ、「今年ですよ」と答えると目を丸くしたが、私の茶碗洗いは初日で卒業になった。これは、同期から羨ましがられた。
 お茶当番がなくなると、研修に行くまでやることがない。すると、室長が背後から声をかけてきた。「どう?」パイプに火を点けながら歩き回る人だった。「どう?」に答える短い質疑が何度かあって、「なるほど、それレポートにしてくれますか」となった。そして、とうとう研究室全員に毎週レポートを出すよう、オフレが出た。A4一枚フリーである。「おまえが変なこと話すからだ」と愚痴る先輩もいたが、私は楽しかった。資料をコピーしている最中、プリンタ用紙を運んでいる最中、電車の中でも、次は何を書くか考えた。そのため職場を注意深く観察した。
 交換プログラム研究室の人たちは、プログラミング言語やコンパイラの知識は乏しいようだ。すると「次の室議でレクチャーして」となった。高級言語とは、コンパイラとは、オブジェクト指向とは、と発表した。
 室長やプロジェクトリーダは超多忙だから、職場ではほとんど話ができない。ところが、通勤が同じ下り電車だと分かった。隣に座れば朝三十分話ができた。きのうは室長、今日はリーダ、今思えば迷惑な新人だったかもしれない。
 提出が捗々しくなかったようで、室長から全員にお題が出た。「十年後の開発はどうなっているか?」に私は「十人になっている」と書いた。根拠は映画にある。監督、助監督、脚本、美術、特殊効果、これらに相当する少数精鋭の人材でプログラムも開発できるようにする。カメラはコンパイラ、俳優はコンピュータと考えれば、開発要員は、助手も含め、ざっと十人でよいはずだ。
 当時、交換プログラムの開発には千人が携わっていた。今思えば自動化・不要化できる仕事が多かった。会議資料、報告資料のコピーは「青焼き」だった。ソースの印刷には、カーボン紙を使い、一度に三部印刷。しかし、印刷したあとカーボンを外す作業で手が黒くなった。
 ある日、守衛から電話がかかってきた。「十トントラックを、どこに着ければ?」プリント用紙の納品だ。夏休みで人が少ない日だったので、運転手と二人で荷下ろししたが、その膨大な用紙も数回のコンパイルで消えてしまう。
 会議資料の管理も大変だった。仕様を審議する開発会議は、分野毎に週五日開催されていた。私は三つに出席し、二つは議事録を担当した。資料を閉じたキングファイルが棚を埋め尽くしたので、検索しやすいようサマリーを作った。開発時にどう判断して、そう決めたのか。あとから思えば貴重な資料である。しかし、開発が終わると、場所が無いからと処分された。
 のちに米国の交換機メーカに出向させてもらった際、ソースプログラムと一緒に設計メモもディスクに保管されていて感激した。
 映画なら、脚本の推敲やカット割りなど、すべて記録する。黒澤映画なら、そうした記録が立派な本になっている。交換機の開発にも記録があって しかるべきと思うが、毎年の「紙削減運動」で消えてしまった。
 保管すべきと感じたのは、開発から七、八年経って、あるプログラムの起動タイミングについて「なぜ三分毎か、堂山さん、何か知っていませんか?」と訊かれたからだ。心当たりがあった。それは当初三十秒毎だったのだが、それではあるリレーの寿命が足りないと分かり、起動周期を伸ばしてほしいとハードウェア部門から要請があった。では、どこまで伸ばせるか。確率を計算して、開発会議に付議したのだ。遺すべきは、こうした背景である。プログラム自身の説明ではない。何気ない数値にも意味があり、決定に至った背景がある。
 日比谷の電電公社本社の地下四階は巨大な倉庫になっている。天井が通常の倍はある。その高い天井までびっしりと「技術資料」の棚があった。入社七年目、研修を担当した半年間、本社人事部に兼務した。このとき、ジョギングの着替え場所を探して地下まで降りて発見した。私が携わった交換機の技術資料も並んでいた。
 研究所での開発は「技術資料」を送ると終了。あとは紙削減運動の対象になってしまう。しかし、本社地下には保存されていたことを知り、ホッとした。開発会議の資料すべてではないが、かろうじて「技術資料」は遺されていた。
 ところが、さらに十数年後、打ち合わせで本社に行った際に地下に降りてみると、キングファイルが棚から全て出され、乱暴に積み上げられているではないか。近く焼却される運命のようだ。背丈を越えるキングファイルの山によじ登り、資料を探してみたが、見つけることはできなかった。もし見つけても数十冊を持ち出すことはできなかっただろう。
 日本には「水に流す」文化があり、断捨離に潔い。しかし、欧米では戦争資料などもきちんと保管している。システムの寿命が三十年と長い交換機では、開発の経緯は保存しておくべきだ。
 パイプをくわえ、「どう?」と声をかける室長は、すぐ新しい通信会社に引き抜かれた。それでも、突然背後から「どう?」と訊かれる気がする。そのとき、どう答えるか。
 「そうそう、十年後十人は、その後どうかね?」

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