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盲目の老婆

「先生、入れ墨だけは……入れたらあきまへんで……」

そんな忠告をしてくれた人がいる。誰もいない、深夜2時の赤信号でも律儀に止まる、不器用なほど真面目な私に、墨を入れる予定はない。
 


私の職業は鍼灸マッサージ師だ。
カバンひとつ肩に担ぎ、ご自宅に伺って施術をする。

もう四半世紀もこの仕事をしているので、いろんな患者さんの、十人十色な人生を垣間見てきた。

元社長さんから、学校の先生、漫才師のお母さんから、暴力団の元組長さんなど。

その組長さん、昔はそこそこ名の知れた武闘派だったらしいのだが、最近の悩み事は、お風呂上り、3歳になる孫が消しゴムで入れ墨を消しにくることだ。

「おじいちゃん、こんなところにおえかきしたらダメですよ!」

頬をふくらませ、力いっぱい背中の昇り龍をゴシゴシしてくる。でも、全然消えないから、いつも最後はションボリになる。

そんな孫が不憫だと、これまたションボリになる組長さん。心なしか、背中の昇り龍もショボリ龍に見える。

「先生、入れ墨だけは……入れたらあきまへんで……」

と、ノドから異物を吐き出すように語る組長さんの目が、本職のそれと同じ鋭さを放つので、一瞬ドキッとする。

「昔は武闘派でしたが、最近はぶどう派です」


食後の推しデザートを、おちゃめな親父ギャグで教えてくれる。

しかし、そのドスの効いた声のおかげで、全てが台無しになっていることに彼は気づいていない。


市営住宅に住んでいるFさんは、もうすぐ90歳。彼女は目が見えない。全盲だ。

「あ〜、先生来てくれたんか?うれしいわ〜。おおきに、いつもおおきにやで」

と、電気のついていない、薄暗い部屋の中、まぶたをしばつかせ、破顔一笑、喜んでくれる。

「ほんまに、私は幸せもんです」

Fさんの口癖だ。

なぜ、こんなにも幸せそうなのか、私にはわからなかった。

ひょっとすると、無理をして自分にそう言い聞かせているのではないか?と少し訝(いぶか)しんでいた。

生まれつき目の病気を患っており、「おそらく、成人するまでに失明すると思います」と主治医に告げられる。

「こんな身体ではお嫁にいけない」

1人で生きていくと心に決めた彼女は、あんま・マッサージ・指圧師の国家資格を取得するべく、盲学校に入学する。

そこで運命の人に出会う。後のご主人様である。

卒業後、二人三脚でマッサージ院を営んでいたのだが、ご主人はすでに全盲で、Fさんも徐々に視野が狭くなっていた。

そのため、数々の失敗や、心無い人からの詐取など、かなりご苦労されたそうだが、なんとか二人で乗り切ってきた。

そんなご主人も、10年ほど前に他界する。子どものいない彼女は、それからずっと、ここで一人、細々と暮らしている。

全盲、高齢、一人暮らし。


最後に外出したのは、もういつのことだったか覚えていない。


「ほんまに、私は幸せもんです」


嘘だと思った。この人は嘘をついている。
ある日、私は思い切って質問する。

「なんでいつも、そんなに幸せそうなんですか?」

すると、

「だってうちに来てくれる人、みんな親切な人ばっかりや。ヘルパーさんもお医者さんもそうやし、あんたかてそうや。なんで皆こんなに親切なんか不思議なくらいや。ほんまに私は幸せもんです」

いつものように、まぶたをしばつかせ、大げさな笑顔をこちらに向ける。

でも、皆が親切なのは、そうやって彼女がいつも幸せそうに笑っているからではないのか?

もう少し、つっこんでみる。

「でも外出も出来ないし、一人暮らしも寂しくないの?」

彼女はしっかりこちらに顔を向け、神妙な面持ちで、


「生きさしてもうてるだけで幸せです」

なんと!

生きてるだけで幸せなら、ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんな生きているだけで幸せだというのか。


なんだか綺麗事すぎると感じた私は、さらに質問を重ねた。

「本当に昔から、そんな感じですか?」

すると、彼女の口元が一瞬、ぴくりと歪んだ。

「ふぅ~」と大きく息をひとつ吐き、

「先生には、かないまへんな~」

と、あきれたように、少しづつ、重い口を開いてくれた。



若い頃は、まだ視野も広く、見えにくいなりにも、なんとかやっていけた。

しかし、年を重ねるごとに、視野がどんどん狭くなる。不安が恐怖に変わっていく。

「年内には失明すると思います」

主治医の説明を聞いたとき、彼女から笑顔が消えた。死のうと思っていた。

それからの事はあまり覚えていない。とにかくご主人に当たり散らし、泣き喚いたそうだ。

毎日、死ぬことばかり考えていた。目の見えない自分なんて、何の役にも立たないのではないか?社会のお荷物なんじゃないか?生きている価値はあるのだろうか?

数か月後、ついに、完全に光を失う日がやってきた。

文字通り、目の前が真っ暗になった彼女は、来る日も来る日も、泣いて暮らしたという。

どれぐらい泣いたのだろうか?夢か現実か、よくわからないある春の日の朝、ふと、裏の公園から鳥の鳴き声がする。

その声がなんとも楽しげで、まるで、うれしくって仕方がないといった、喜びの歌のように聞こえる。

えっ……?

彼女はあることに気がついた。どうやら目が見えなくなってから、視覚以外の感覚が鋭くなっているらしい。

いや、ただ鋭くなっただけではない。なんというか、音や味や匂いにも、まるで感情があるかのように感じられる。そこに内在するエネルギーの質感が、手に取るようにわかる。

その瞬間、彼女はすべてを理解した。なんてことのない、ありきたりの日常が、いかに幸せであったか、ということを。

ただの鳥の鳴き声が、喜びの歌に聞こえ、吸い込む空気が全身を隅々まで浄化し、窓から入る太陽の光が、やわらかいエネルギーの衣でふわりと包んでくれる。

身体中の細胞の一つ一つが、生きるという明確な意志を持って躍動しているようだ。

「あぁ、私の身体は、生きようとしているんや……」

そのとき流れた涙は、今までのものとは質を異にする、優しくて、熱い、魂からの涙であった。



「人は、頭でっかちにあれこれ考えるさかい、しんどくなるんちゃいまっか。いまをしっかり味わい尽くしたら、そらもう生きてるだけで感謝しかおまへんで」


嘘じゃなかった。壮絶な過去を乗り越え、彼女はいま、本当に幸せな日々を生きているんだ……




幸せって、努力して「なる」ものだと思っていた。自分の手で掴み取るものだと。だから私はガムシャラに頑張ってきた。

「24時間戦えますか?」と世間に煽られ、「ユンケルンバでガンバルンバ」と自らを鼓舞した。趣味はサービス残業。タイムカードは何のためにあるのか知る由もなかった。

働いて働いてお金を稼ぎ、車を買って、家を買った。

ハイブランドのスーツに身を包み、高級時計を袖からちらつかせる。

そうすれば幸せになれると信じて、全力で走り続けた。

結果、鬱になった。会社を辞めた。

「幸せになりたい……」

「幸せになりたい……」

「幸せになりたい……」

ずっと、幸せを追い求めてきたのに、その手は何もつかむことが出来なかった。

でも、彼女に出会ってようやく気づくことができた。

幸せとは「なる」ものではなく、「感じる」ものである、と。

いつか幸せになるために頑張るのではなく、いま幸せであることを感じる。そうでしか幸せには成り得ないことを教えてもらった。

「幸せになるために、何かを目指して頑張ることの何が悪い!」と、反論する人もいるだろう。

別に悪くはない。でも、頑張った結果、得られるもの。それはただの達成感であって、幸せとは本質的に違うものである。

何かを達成すると、拳を突き上げるほどの興奮を得られるが、しばらくすると興奮が冷めて、また新たな目標に向かって走り出すことになる。

そんな見えないゴールに向かって必死に走り続け、「こんな生き方では、もう無理かも知れない……」と人生を半ばあきらめかけていた頃、私はFさんに出会った。


あれから12年。

いま、私は、「生きているだけで幸せ」と言えるほど、達観はできていない。

いまを感じることが大切だとわかっていても、つい将来の事を考えて不安になる自分がいる。

そんなとき、静かに目を閉じてみる。
まぶたをしばつかせる、あのときの笑顔がそこにある。

大丈夫。答えはもう、わかっている。







今日も私は、カバンを担いで、往診にゆく。

信号待ちでふと空を見上げると、細長い龍のような雲が天に昇っていく。

私は、静かにつぶやく。

まだ、墨を入れる予定はない。





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