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子供の未来を憂うとき

「ママー、今日は長そで長ズボンで保育所に行く」

少しションボリした様子で息子(次男)が言う。

「なんで?」

と妻が問う。

「だって先生が長そで長ズボンで来なさいって言ったから」



12月。いわゆる師走。師も走り回るぐらい忙しいこの季節。息子は半そで半ズボンで意味もなく走り回っている。

「ほぉ〜、ぼく元気やな〜。寒くないか?そうか。寒くないんか。そりゃ結構じゃ!」と、通りすがりのおじいちゃんが破顔一笑する。

そりゃあ、木枯らしが吹きすさぶ中、半そで半ズボンで丸坊主。ミニミニ一休さんみたいなのが前から走ってきたら、世のジジババ様は皆、目尻を下げて声をかけてくれる。平和な国ニッポン。

そうやって皆が声をかけてくれると、息子は少し照れ笑い。嬉しそうだ。そんな彼に「半そで半ズボン禁止令」が発令されたのである。

それを聞いた妻の顔が、一瞬険しくなる。そう、妻は自由を制限されることを最も嫌う、アメリカン気質の人間だ。

「先生がなんでそう言ったんかわからんけど、自分が半そで半ズボンで行きたいと思うんやったらそれで行ったらええんやで!」

まずい。保育所VS妻、「アメリカ独立戦争」ならぬ「保育所独立戦争」が勃発しそうな予感がする。保育所からの独立を勝ち取ったところで、ただの待機児童になるだけである。

「まあまあ、インフルエンザも流行ってるし、体が冷えて免疫力落ちたらあかんと思て、心配して言うてくれてるんちゃう?」

などと適当なことを言って、なんとか妻をなだめる。結局、息子は長そで長ズボンで保育所に行き、事なきを得る。くつ下を履いていないのは、彼なりのささやかな抵抗なのかも知れないが。


さて、先生はなぜ「長そで長ズボンで来なさい」と言ったのだろう。もちろん息子の勘違い、聞き間違いという可能性もある。

以前、「大阪城を作った人、ぼく知ってるで!」と得意気に言ってきたので、「誰が作ったん?」と聞くと、「よしながひであき!」とドヤ顔で言い放ったことがある。誰やねん、その限りなく「壊れかけのRadio」に近い殿様は。

もちろん、直接先生に確認すればいい。しかし、その時に流れる空気感が私は苦手なのである。

モンスターな親がクレームを言いに来たと察知した先生が、申し訳なさげに事の成りゆきを説明しながらも、内心は「うっとうしいわー。こんな親がいるから保育所は大変なんよね」と思っているかも知れないので、こちらも精一杯の笑顔と冷静さを装うのだが、ひょっとして百戦錬磨の先生は、この私の演技を見抜いた上であえて気づいていないふりをするという配慮をしながら対応しているではないのか?など、無意味にメタ認知が暴走してしまうという、面倒くさい性格なのだ。

なので、ここではいったん息子の勘違いではなく、本当に先生が「長そで長ズボンで来なさい」と言ったと仮定し、あえて先生にはその真意を確認しないとする。

では、こんなとき、どう対応するのが良いのだろうか?そう考えることによって何か学びに繋がることはないだろうか?

まず、先生に反抗し、半そで半ズボンを貫く、自由を愛するアメリカンスタイルで強行突破をしたとする。

もしこれが上手くいけば、「やった!自分の意志を貫くことで絶対的な権力に打ち勝つことが出来たぞ!やればできる!半そでイズフリーダム!俺たちは自由だあぁぁぁ!!!」という、まさにアメリカ独立戦争で勝利したときのような成功体験を手に入れることができる。

なんなら事前に保育所で水筒のお茶をぶちまけて、「ゆり組お茶会事件」を起こしたっていい。

では、先生に従い、長そで長ズボンに甘んじる、キョロキョロと周りの様子を伺いながら空気を読む、事を荒立てないジャパニーズスタイルで対応した場合はどうだろうか。

長そで長ズボン姿の息子を見た先生は、「えらいね~。ちゃんとお約束を守ってくれたんだ。ありがとうね」と息子の坊主頭をなでなでしてくれるかも知れない。

すると息子は、「先生の言うことを聞いたら褒めてくれるんだ」という成功体験をする。権力に従うことにより「ういやつじゃ」と愛でられ、保育所内で優位なポジションを獲得できる。

なんなら朝早く保育所に行き、先生の上靴をふところで温めておくという、秀吉スタイルで媚びを売るのもいいだろう。次回の発表会では王子様役に抜擢されること間違いない。


では、それぞれのデメリットはとうだろうか?

まずは、自由を愛するアメリカンスタイル。いくら自己主張したところで、しょせんはまだ6歳。先生という権威をまとった大人相手では、神に挑む人間、象に挑む蟻、アンドレに挑む星野勘太郎。ひとたまりもない。

下手をすると先生の機嫌を損ね、次回の発表会ではワカメとなり、永遠に隅っこの方でユラユラしている可能性もある。

次に、事を荒立てないジャパニーズスタイル。もちろん先生の言う事を聞いたのだから、相手だって気分はいい。「よしよし、ちこうよれ。苦しゅうない」と先生の膝の上をゲット出来るかもしれない。

しかしこの成功体験により、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」「大勢順応」「付和雷同」、「朱に交わればまっかっか」になる恐れがある。

こうなると、大人になれば会社の言いなり、ブラック企業の社畜になって、骨の髄まで吸い取られる。もし戦争になったら、勇んで人間魚雷になるかも知れない。父はそんな絶望的な特攻兵器には乗って欲しゅうない。君死にたまふことなかれ。


まとめてみると、

アメリカンスタイル。成功すれば、自由を獲得できる。積極的に自己主張する大切さを学び、自信溢れる、行動的な人間になる。

しかし失敗すれば、「やっぱり僕なんて……」と自己肯定感は爆下がり。永遠にワカメのように隅っこでユラユラする人生を歩むことになる。

ジャパニーズスタイル。成功すれば権力者に愛でられる。優位なポジションを獲得することにより、空気を読む大切さを学び、協調性のある人間になる。

しかし、この成功体験により、自己主張しないただの「イエスマン」になる可能性がある。権力に抗えず、搾取される側の人間になる。


うむ。こうやって考えてみると、どちらにも一長一短があり、どちらが正解だと一概には言えない。さて、息子にとってどのように振る舞うことがベストなのだろうか?


ここまで考えて、やっと一つの結論にたどり着く。



「子供の将来なんて誰にもわからないんじゃね?」



未来なんて予測ができない。自分の人生ですら、思い通りにならない。ましてや子供の人生などコントロール出来るあろうはずもない。

私が子どもの頃、この世に携帯電話なんて存在していなかった。メールなんて概念すらなかった。

中学生の頃、公衆電話から彼女の家に電話したとき、「はい、もしもし」と野太いお父さんの声が聞こえた瞬間に電話を切ってしまい、また掛けなおそうかどうか30分くらい悩んだ末、勇気を振り絞って電話をしたら、またお父さんが出たときの絶望感はいまも忘れない。

35歳を超えてもまだ独身だったあの頃。「もしかしたら一生独身かもな」とぼんやり考えていたあの日から数年後。

寝ている私に娘が飛び乗ってきて、ブルーザー・ブロディばりのフライングニードロップをくらって肋骨を骨折したり、ダウン症の息子が私のメガネを3度も踏みつぶしたおかげで近所にあるZoffの定員さんと仲良くなるなんて誰が想像できたであろうか。

人間万事塞翁が馬である。

子供の歩む道を先回りし、別れ道があれば「こっちの方がいいよ」と手招きするのではなく、あぶなっかしいなと思いながらも子供の選んだ道を信頼する。

ころんで泣いて、助けを求められたら手を差し伸べるけど、ころばないようにあらかじめ石をどけたりはしない。気づかれないようそっと後ろから見守る。そんな親に、わたしはなりたい。


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