そのまんまの僕じゃダメですか?
ダウン症は天使だと言われることがある。
しかし、私のメガネを2度踏みつぶし、車の運転中、つまようじで左腕をぷすぷす刺してくる、こやつのどこが天使やねん。食欲旺盛な彼は天使というより、お腹まわりが力士のそれである。
学校から持ち帰る、健康手帳の折れ線グラフが、バブル期の株価なみに景気がいい。これはいかんと、食事の量を減らしてみたりもするのだが、なぜかお腹はふくらむ一方である。
立てば関取、座ればビリケン、歩く姿は裸の大将。
握り飯がよく似合う。
「ダウン症の子は天使だね」
これは、息子がお腹の中にいるとき、「産むのか産まないのか、どっちなんだい!」と筋肉ルーレットを迫られ、精神的にきつかったときに、助けられた言葉だった。
しかし、最近はこの表現に違和感を覚える。
なぜだろう?
それは、
ダウン症の子は、何か特別じゃないといけないのか?
というプレッシャーを感じるようになったからだ。
「ダウン症の子は、なにか特別な才能があるらしいから、その才能を伸ばしてあげれたらいいね」という類の言葉を、何度言われたことだろう。
最初のうちは、「そうですよね~、あははっ」などと適当にあいづちを打っていた。でも、日を追うごとに居心地が悪くなってきた。
「うちの子、普通のダウン症じゃあかんのか?」
「なんか特別な才能がないとあかんの?」
「じゃあ、おのれはどないな才能があるんじゃ!見せてみいや、あん?!」
いや、周りの人はとても親切な人たちである。これは、私を気遣い、よかれと思っての、優しくて愛のある言葉がけなのだ。重々承知している。
なんなら、私が逆の立場でも、同じようなことを言ってるに違いない。
でもね、これって「このままじゃダメだ」と言われているのと同じことではないのかと思う。
プレーンタイプのダウン症じゃダメなんか?
なにかトッピングが必要なんか?
「障がい?じゃあ、どっか他のところでリカバリーしないとね!」
と言われているような気がする。
ただでさえハンデを背負って生まれてきた息子。その子に向かって、さらに頑張れと。今のままじゃダメだ。少しでも普通に近づく努力をしなさいと。
誤解しないでほしい。言っている当人は、全くそんなこと思ってない。わかっている。
ただただ、優しさからの発言だと、その表情や仕草を見ればわかる。
むしろこっちの被害妄想感がハンパないように思われても、仕方がないだろう。
しかしだ、無意識だからこそ根深いのである。自分では意識が出来ないほど、内在化している概念。
「このままじゃダメだ。もっと頑張って上を目指すんだ!」
「今の自分じゃダメだ。もっと成長して、特別な自分にならなきゃいかん!」
じつはこれ、障がい者に対してのことだけではない。私たちを含めた、多くの人にのしかかっている、現代社会の「呪い」なのかも知れない。
「ナンバーワンよりオンリーワン」
「あるがままに生きる」
こんなフレーズに、ぴくりと心が反応する。ただの自分、ありのままの自分。そんな自分で生きて行けたなら……
息子を見ていて、ふと思うことがある。
「もしかして、家族の中でこの子が一番、幸せなんじゃないか?」
自分以外の、何者かになろうという気概がいっさい感じられない。
努力して何かを勝ち取ろうとする気配もまったくない。
はちきれんばかりの笑顔。自然体。生まれながらにして人生の達人。よっ、ナチュラルボーンマスター。
そんな彼を見て、羨ましく思うことがある。
そう、天使じゃなくても、天才画伯じゃなくても、いまを精一杯生きている。
それでいいんじゃないかと。
私もいつか、そんなふうに生きてみたいと。
いや、子供の頃は、皆そうだったのかも知れない。大人になるにつれ、常に何かに向かって成長し続けることを強要される。
そうしていつの間にか、「このままの自分じゃダメだ。もっともっと頑張らないと」病に侵されてしまった。
もう、そろそろいいんじゃないだろうか?
そんなに成長し続けなきゃいけないのだろうか?
「泳げないものは沈めばいい」
この競争社会のなか、成長を諦めたものは、落伍者のように扱われてきた。
でも、本当にそうだろうか?
本当に皆、こんな社会を望んでいるのだろうか?
「そのまんまの自分でいいんじゃね?」
あるがままに生きている息子を見ていると、そんなふうに言われているような気がする。
ありがとう。君はいつも、本質的な何かを私に教えてくれる。
あなたに会えて、本当によかった。嬉しくて嬉しくて、言葉にできない。ラーラーラ、ララーラ♪……
ただ、そのウエストだけは「そのまんま」ではダメだ。どげんかせんといかん。
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