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「だからさ、このままここにいてもいいんじゃない?って思って」
 ぼくはそうは思えない。
 彼女を前にしてぼくは熟考する。そして口を開いた。
「……君も、夢を見るよね」
「見るけど?」
「ぼくはね、夢が何層も重なることがあるんだ。どうしても起きなきゃいけない朝、夢を抜けてベッドから出る。けれども体が妙に重いし現実感がない。そこで再びこれが夢だって気づくんだ。そしてまた起きようとする。けれどもそれもまた夢なんだ。これがずっと続く。そのうちに耐えようもなく恐ろしくなる。自分は永遠にこの曖昧な微睡の一瞬を繰り返すだけなんじゃないかって」
 結果として生きている意義を失する。
「それは多分…ここと変わらない」
 眼前の風景は美しい。蒼天。白雲。緑林。山脈。波は寄せては返し、寄せては返し。全てが穏やかな時間だ。けれどもぼくの生きて来た世界とは違う、偽物だ。
「ここは檻だ。どうしようもなく美しいだけの、檻なんだ」
「……君はそうなんだ」
「ああ、だから君とは行けない。ここにいることはできないんだ」
「そうか……ここの人になっちゃえばって思ったんだけどな」
 彼女は残念そうに手を後ろに組んだ。左手を背中から回して右手の肘あたりを掴んだ。そして横を向く。
 ゆっくりとした風が彼女の前髪を吹き上げて乱舞する。ハッとするほど美しかった。けれどもその美しさはここと変わらない。理想の世界だ。穏やかで、憂いを知らない。
 ただぼくの居場所ではないというだけだ。
「けれども元の場所でも君に居場所なんてあるのかな?」
 ぼくは笑った。
「そんなものないよ」
 そう、居場所なんて。
「ぼく一人がいなくても廻る世界がいい」
 そう言うと彼女は目を伏せた。黒い睫毛が妙に艶っぽい。
「そう……じゃあ、おしまいだね」
 彼女はぼくの元へと近づき、指先でトンと胸を押した。小さな力だったけど、ぼくを振り返らせるにはじゅうぶんだった。後ろにはドアがあって、カギはなかった。
「ここを抜ければ、君は帰れる。今なら間に合う」
 ぼくは彼女を見る。
「ありがとう」
 目を逸らしたかったけどそうはしなかった。彼女の姿を死ぬまで目に焼き付けておこうと思った。
「じゃあもう行くよ。このままここにいたら気が変わっちゃいそうだ」
 ぼくは取手に手をかけた。とても軽かった。扉の隙間から流れ込んで来た空気がこことは違う景色が向こうにあることを告げている。
「元気でね」
 ぼくは振り向いて笑顔を作る。
「君こそ」
 そして扉を開く。
 眩しい光が射し込む。

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