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Linuxとおもちゃ箱の復権

型落ちマシンと戦力外通告

初めて触れたLinuxは、15年くらい前のDebianとかKnoppixだったと思う。
「CD一枚でメンテンナンスに使えるOSがある」みたいな触れ込みで面白がってみたが、外部メディアからOSが立ち上がるのが新鮮だったくらいで、一瞬盛り上がっただけだった。
当時の自分には別に使う必要がなかったから。そしてそれはそれでよかった。

Linuxのことを思い出したのは、やっぱりコロナ禍が遠因にあった。
自分の手元には2台ノートパソコンがある。ガッツリ論文を書くために勇んで買ったマシンと、5~6年前から使っている型落ちマシン。
当時在籍していた大学院はコロナ禍のため、一時期授業はすべてオンライン。
仕事帰りにWi-Fi対応のカラオケボックスで授業を受けることにしたところ、大切な方のマシンはとても持ち運ぶわけにもいかず、型落ちの方を持参した。
しかしこれがさすが型落ち。Zoomはまるで立ち上がらず、結局スマホで授業を受けた方がまだマシ、という有様。スタメン落ちを実感した。
こうなるとまあ、普通は捨てるかどうしようか考えるもんだと思う。

ディストリビューション探しの旅

型落ちマシンはしばらく置物状態が続いていた。
本命マシンで何でもこなすようになったことが、かえってこだわりを失くしたんだろう。必要なデータも移し終えていたし、役割らしいものはすっかりなくなっていた。
Ubuntuを入れたのは、ベッドで寝ながらネットが見れればいいや、という程度の動機だった。
有名どころのディストリビューションだからと入れてみたら、便利だが挙動が重い。使っていくうちに正常起動もしなくなっていくので、軽量版のLubuntuでしばらく使う。これが良かった。
ネットを見る分にはまったく問題がないし、動画サイトでカクつくこともない。何よりZoomも動く。Windows10と比べて、OSの違いでここまで差がつくとは思わなかった。
Linuxは難解なコマンドライン操作ができないと何も進まないような先入観があったけど、たいがいコピペで済む。アプリケーションの追加や削除がMac OSXみたいに一元化されてるのも好印象。
Lubuntuは結局半年くらいは使っていたと思う。ファイルマネージャーが何だかイマイチな気がしてしまい、Linux Mintに乗り換え今に至る。メモリは少し食うようになったけど、まあ悪くない。
型落ちマシンは当初事務用途と低価格で仕方なく買っただけのはずだった。それが何だか2軍落ちした選手がスタメンに復帰するドラマを見るみたいで、愛着が感じられるようになってきた。

リカレント教育になぞらえる

何年か前の講演で、前・日本社会事業大学学長の神野直彦先生が、ギデンズを引用しながら日本の労働市場における学び直しの必要性を説いておられたのを思い出す。
学び直しは人材の再生でもある。再生は可能性の再生産であるし、そこに希望をつなぐ余地がある。
中古パソコンはもちろん人材ではない。Linuxをインストールする再生の旅は、むしろ使う側にフォーカスされるべき事柄だろう。
何の用途に使うのか、どこまで活用できそうなのか、そして使用する自分にはどんな資源があるのか。書いていると何だか、小さな組織論でも説いているみたいだ。

そして手探りで、やり方は自分で調べて考える。これが良い。
遊び方のルールは自分で考える。自分だけの箱庭づくりがパソコン趣味にはある。つまりここは「おもちゃ箱」だ。
小さな希望も、欲動も、記憶も、過去と未来の可能性がいっしょくたに混ざり合う。「今・ここ」の自分に合わせて用途が再編成される。
工夫のしどころがあるのだ。

小さなオフィススイート環境をつくる

もう一つ、実はLinuxにはひそかな期待(というより妄想に近い)を自分は抱いている。
たいがいのLinuxディストリビューションにはLibre OfficeなりWPS Officeなりの無償で使えるオフィス環境が備わっている場合が多い。もし外部とMicrosoft Office形式のファイルをやり取りする機会がそこまで多くないのであれば、簡単な表計算やちらしの作成は十分だったりする。これはもちろん別にGoogle Workspaceでもいい。
「中古パソコンのスタメン復帰」「オフィススイート環境の自由化」と来れば、(そこまでうまく行くかは置いておいて)設備投資のハードルはぐっと下がる。
元手がなくても、下手すれば10,000円くらいの中古マシンで帳簿をつけたり、個別支援計画書を作り、論文を書き、プレゼン用のスライド資料が作成できるかもしれない。
「志のある人なら誰でも参加できる」フロンティア精神は、ハッカー文化やGNU、自由ソフトウェアの恩恵を感じるところでもある。
余談だが、ブラウザベースで完結するクラウドサービス(SaaS)の発展も大きいと思うが、あまり詳しくないのでここでは触れない。

目的的に技術は活用される

寝床パソコンの再生やLinuxいじりに始まった遊びも、ここまで来てずいぶん主語が大きくなってしまった。
改めて目的を問う。何が自分にとって必要なのかと考える。このゆとりがパソコン趣味にはある。
資本がなくても結構いろいろとやれてしまうかもしれない。型落ちマシンでもこの通り、何とかなっている。
そういった可能性の余地や希望をLinuxは教えてくれる(ような気がする)。

聖イグヌチウス(リチャード・ストールマン)


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