「耳鳴」
キーンという音が、1日鳴り止まなかった。
始めは電子機器が壊れたのかと思って、部屋中を見て回ったけど、音源が見当たらない。
もしや、と耳の穴を人差し指で塞ぐと、甲高い音は続いて、どうやら脳髄で奏でられているらしかった。
放っておけば収まるだろうと、身支度を始める。
十一時過ぎ、僕は朝が弱いから、よく午後からの予定を入れる。今日も一時に改札前に待ち合わせることになっている。
コーヒーの粉が入ってる袋を開けると、ふわっと香りが充満する。最初はカルディみたいだなと思っていたけれど、あれは複数の豆が重なり合ってて、雑多な匂いなんだと思うようになった。
そのままフィルターに乗った粉末を蒸らして、数回に分けてお湯を注ぐ。
この瞬間まで、僕の意識は半分以上が夢になおざりだ。それらがゆったりと、頭の中に集合して整列する。とんがり帽子の小人たちが、せっせと働く準備をするのだ。
だが今日は、そうもいかなかった。
耳鳴りである。
キーンという音が、僕の耳に透明な膜を張って、僕は僕を取り巻く現実世界から、一定の距離を置かれる。
ぐっと力を込めても、やはり朧げで、現実という岸辺にどれだけ泳いでも辿り着けない、そんなもどかしさが胸を満たした。
十二時十二分の電車に乗る時も、耳鳴りは続いた。
僕はここで漸く、なにやら危険らしいと気付き、スマホで、今日行けない、と送ろうとした。
だが既に、僕は僕が立てた予定を却退するほどの気力が残されてなかった。
人間は今日のイベント、という大いなる流れに逆らえるような、高尚な生き物じゃない。わざわざ逆らうより、身を委ねた方が楽なのだ。
そんな現状を知ってか知らずか、電車は僕を駅へ連れてって、僕の足は電車からのっそりと降りて、僕の手は定期券を改札に翳したらしかった。
指が一人でに、スマホのロックを解除して文章を打ち込む。
〈改札ついた〉
『う・し・ろ』
〈ホラー映画かよ〉
『み・ぎ・ど・な・り』
〈移動すんな〉
「やあ」
陽気な挨拶をした栗色の少女は、僕の前でピースサインを開閉した。
「a#4(c_s・(4/A3(☆pf9=(//」
そういえば今日の僕は、耳鳴りが酷かった。
読唇術が使えないから、簡単な単語以外は彼女がパクパクするのを眺める、奇妙な時間になった。
彼女は段々話すのをやめ、訝しげな顔になって、綺麗なネイルが施された親指と人差し指で僕の顎を掴んだ。
「聞いてる?」
途端に世界から音が押し寄せて来た。足並み、雑多な会話、電車の駆動、改札のドア、駅員の独特なアナウンス、心臓の鼓動とそれらの反響。
ああ、あぁ、音ってこんなにあったんだ。
やけにピンク色の目が、じっと僕を睨んでいるけど、僕は嬉しくなった。
岸辺へもがく僕を、波が打ち上げた。
僕は現実の方が、歩み寄って来てくれたんだと思った。
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