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#2「かける魚」

前話 → #1 「ベランダ、もしくは水中」



 他所と比べても、随分未熟な母親だと思う。
僕が母の手を引いて、幼稚園のお迎え用バスの停留所へと、連れて行ったこともある。
 母はいつもふらふらと、知らぬ間に家を出ては、知らぬ間に帰ってくる。
 数枚の写真でしか顔を知らないけれど、毎月二人分の生活費を振り込んで、何処かで好き勝手に生きている父の方が、僕にとっては大人という存在に近かった。
「あのさ、お迎え要らないよ」
 子どもながらの気使いだった。僕はとうに一人で行けるから、家でゆっくりしていればいい、と思った。
 いつもゆるっと機嫌のいい母は、たくさんの感情が乗っかった顔をした。
 悲しみとか怒り、憐み、愛しさが絵具みたいに混ざっていって、力ない笑顔の色になった。

 幼いながらに、何か言葉を間違えたということだけ分かった。

 せせらぎが聴こえる。
 徐々に感覚を取り戻していくと、腿より下が少し冷たい水にさらされているのを感じる。風が通ると、夏の夜みたいな柔らかい大気が肌に当たる。
 光を感じて目を開くと、空は夕暮れらしい。
 起き上がって見えるのは、僕が脚から浸かっている、腰くらいの深さをしている川、少し離れて生えるまばらな種類の植物たち、そして遠くに美しい塔が立っている。
 塔は駅前にあるような、10階建てマンションくらいの高さで、円柱を基本としながら、ところどころバルコニーや大きな窓が付いている。外壁はシャボン玉の表面みたいに、淡い虹色に光っていて、僕が少し動くたびに模様が少し揺らめいて見える。

「今日はよく人間に会うな」

 唐突に声がして、右後を振り向くと、小学校高学年生より一回り大きい魚が立っていて、ぎょろっとした左眼でこちらを見ている。異様なことに、口元は人間の唇のような形をしていて、更に目を引くのは、尾鰭から向こうが人間の下半身と同じになっている。
 そこには膝丈のスカートが巻かれて、ラズベリー色の扇が鱗状に連なった模様をしている。膝下からは華奢な女の子のような、2本脚が生えている。
 唇の違和感で気付かなかったけれど、見覚えのある種類の魚、鱒だ。
 僕は驚いて、言葉を失った。目の前の生き物は、童話から飛び出してきたかのようだ。半魚半人の姿には戸惑いを感じずにはいられない。
 鱒の人間のような目は僕を見つめ、何か訊きたげな様子だ。
「君、きみきみきみきみきみきみ」
「うおあ」
 鱒に付いた唇から、これも女の子のような声がする。左眼をこちらに向けてサイドステップでにじり寄ってくる鱒は正直気味が悪い。
「君はどこから来たんダイ、人間はどこからやって来るんダイ、君はここで何をしているんダイ」
「あの、すみません」と僕は慌てて答えた。「実は、その、ここがどこなのかすら分からないんです。さっきまでベランダに居たんですが、気がついたらこの川にいて、、、」
 僕は周囲を見回しながら、状況を説明しようとした。この奇妙な魚人に対して、どう接すればいいのか戸惑いながらも、できるだけ冷静に対応しようと努めた。
「えっと、母親を探しているんです」
「なんだ君は孤児なのか!確カニそういう子どもは多い、みんな何もイワナいで卵だけ残して、遠く泳いでしまうからね、無責任な母親たちだ!」
 そうではなく、ただの迷子探しなのだけれど、魚の世界では孤児のほうがありふれているのかも知れない。
「そうかそつか、それなら塔をメザシて行くといい、あそこなら全て見渡せるからね、きっと君の母親も見つけられるだろう」
「ありがとうございます、登ってみます」
「うむ、だが子どもだけでは危なイカら、私もついて行ってあげよう。塔の近くには不良な魚も多イカらね」
 姿の不気味さに対して、なかなか優しい。魚は見かけによらないのだろうか。

 川沿いの砂利を軋ませながら立ち上がると、鱒は想像より身長が低いことがわかった。
「ところで君は自我が強いのカイ」
「さあ、気にしたこともありませんが僕は僕です」
「なるほどそうか、どおりで、そろそろ腕が欲しかったんだがね」
 ぎょっとすることを言う。薄らと、察してはいたけれど、もしかしたらこの脚と口は人間から奪ったものなのではないか。
 ふと川底を見つめると、沢山の魚影らしきものが一斉に散らばった。

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