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「東京」

 何処へ行っても、煩わしい程に人。「自粛」「死ね」「別れろ」その構成要素たる我が身を棚にあげ、すれ違い様に呪いを振りまいて、ヨタヨタ歩く。

 交差点が真っ赤に染まると、辺りはオーケストラが第二楽章を終え次の準備をする時のような、余韻で満たされる。急に風邪をひいたの、と心配になるくらい、老男女が一斉に咳をし始めるあの時間によく似ている。

 次第に、緊張が場を支配する。全員の意識が、一点に集まるからだ。信号機は不遜に太々しく、倨傲にふんぞり返って、人類を見下す。やつは自分を、神か何かと勘違いしている。「信」の字が入っているし、叛こうものなら異端尋問へかけられる。しかし、これまでやつの自尊心を豚の様に肥え太らせたのは人類だ。やつは人の上に立ちながら、人無しで生きられない、資本家や王様と同じだ。それに気付かない思慮の未熟さが、やつを一層傲慢にしている。

 パッと翠が芽生え、緊張は解けて、全身金属の馬車が、仰々しいエンジンの駆動音と共に、夜を闊歩する。それは、合唱と呼ぶには歩調が揃わず、アリアと呼ぶには数が多い。この街では大抵のものにおいて、存在の主張が過剰だ。主張するほどの自己を持たないくせに、声が大袈裟なのだ。

 これは彼らなりの生存戦略なのだと思う。なぜなら、この街において、大声で叫び続けなければ、それはあっという間に無かった事になる。草臥れた酔っ払いも、道上のパフォーマーも、貴方も、僕も、此処に居るぞと叫ばなければ、行列のできるラーメン屋みたいに、何かが取って代わる。みんなそれが恐ろしくて「君は特別だ」と歌い続ける。この場合、「君」が変数で、僕は「貴方」を代入する。勿論、変数には実体なら何だって入る。結局のところ、行列のできるラーメン屋と、話は違わない。

道すがら、人影に尋ねる。

「東京のイメージが、燃える赤から白い刀になった時、僕たちは生きているんでしょうか。パラダイムの方舟に、僕らは乗せてもらえますか」

ヤニ臭い老人は、僕の耳を指差して応える。

「それ、イアホン紐繋がっとらんな」

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