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「×日」


←まえ

 電車は周期的に揺れる。
 全国模試を受けるために、少し遠い私立大学へ電車で向かった。
 惰性で用語集を捲りながら、あるはずの緊張感が湧かず、そのことに苛立ちを覚えた。

 帰り道は隣の市や町の、知らない顔なのに同い年の少年少女がたくさんいて不思議な気持ちになる。
「蒔白くん!」
 東門を出たところで、やけに通る声で名前を呼ばれた。目線を上げると伊織が背中のリュックを気にしながら両手をぶんぶん振っている。
 周囲の視線が伊織、そして僕の順番に注がれる。
「おいマジでやめろ」
 駆け寄って伊織の両手を右手で掴み、無理やり下ろさせる。それがかえって周囲の関心を惹いた。

 陽の傾いた道を、駅に向かって並んで歩く。
「伊織はどこの大学に行くの」
「どこっていうのは決まってないけど、工学部は目指してる、宇宙のこともっと知りたいから」
「へぇ、じゃあちゃんと教授と設備がしっかりしたとこ行かないとね」
 すると、伊織は誤魔化すような苦笑いをした。
「それがね、静岡から出られそうにないんだよね」
 出られない、とはどういうことだろう。この田舎からも電車は繋がっていて、伊織の家庭自体も下宿費用や学費が払えないほど貧しくはないはずだ。
「お母さんがさ、『女の子は都会なんて危ないところ行かず、家から通える大学にしなさい』だって」
 理解が追いつかない。今どきそんなことを言う親がいるのだろうか。
「んな、そんなふわふわした理由で進路を決められていいのかよ」
「ふわふわでも仕方ないよ、うーん、不安にさせるのは私も嫌だし、寧ろこの辺で入れる大学あるかの方が心配かな」
「伊織なら静大くらい余裕だよ、うちで一番成績いいし」
「まあ一日三十時間勉強してるからね」
「一日は二十四時間しかないよ」
 あはは、と笑う伊織は寂しそうで、その横顔は少しだけ痛々しい。
「蒔白くんは私よりもっと偏差値高いところいけるよ、頭いいし優しいし、寝癖面白いし」
「寝癖関係ないだろ、いけないよ」
「余裕でいけるよ」
「無理だって」
「なんで?諦めたらだめだよ、自分で自分を否定するとね、こう、邪気が豊満になって熟成なんだよ」
 どことなく、縋るような空気がある。諦めて欲しくないというより、諦められたら困るとでも言いたげな。
「押し付けがましくない?意味わかんないし」
「私は蒔白くんの将来を想って」

「お前にわかるかよ、誰も彼もお前みたいに才能がある訳じゃねぇんだよ」
 伊織の顔が引き攣っている。これ以上言う必要はない。
「内心見下してるんだろ、この話だってお前の記憶力にとっちゃ腐るほど聞いたかも知れないけど」
 黙れ、黙ってくれ。

「僕にはこれしかなかったのに」

 今日は朝から調子が悪い。昨日寝付けなかったからか、この暑さのせいか。
 
「ごめんね、でも蒔白くん頭いいから、私にも勉強教えてくれてるし」
「教えてる、教えてたけど」
 日に日に伊織から教えてもらう方が多くなった
地理を五日で仕上げた、生物は三日で八割強の得点を超えた。
 僕がニ年かけて必死に積み上げていったものを、伊織は軽やかに飛び越えていった。
 去年は素因数すら知らなかった彼女が、クラメルの公式を使いこなしている。
「僕は一生かけても、伊織に追いつけない。今の伊織に追いついた頃、お前はもっと向こう側にいる」
 しかもその差は恒久に開いていく。
 否が応でも分かってしまう。
 
 自分が井の中の蛙だった事を早めに知れてよかった。これで無謀な賭けはせず、身の丈にあった堅実な生き方ができる。
 ああなんて俗っぽいんだろう。

 東京に行ったら彼女みたいな人間が溢れるほどいて、その時に僕は何になるのだろう。
 都会の絵の具は彼女の髪をありきたりなブラウンに染めて、居酒屋の安いサワーを飲み明かすようになって、そうしたら安心するのだろうか。

「なんでお前が泣きそうなんだよ」

「だって、だって私は」

 なんとなく理解が追いついてきた。
 僕たちはお互いに、夢を載せ始めていたのかも知れない。それは自身から目を背けるための、未熟で安易な逃避だった。

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