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遠藤征四郎 合気会8段師範

「道」を求める合気道を

 
合気会本部道場師範として指導を始めて三十七年、郷里の長野県佐久市に建てた道場も昨年開設十周年を迎えた。合気道の指導者としてゆるぎないキャリアを築いた現在も、変わらぬ求道の心をもち続ける師範の合気道への思い、道への思いをうかがった。

※所属や肩書きは、季刊『道』に取材当時(2005年)のものです。
 取材:編集部

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道の求め方、姿勢

―― 本誌では10年ほど前に先生に合気道の修行のお話を詳しく伺わせていただきました(106号)。今回は、その後の先生の合気道に対する考え方の変化を「道」という観点からお聞かせ願いたいと思っております。

 
 武道に限らず、茶道や華道などと、日本人は何にでも「道」をつけたがる傾向があります。時には相撲道、野球道、サラリーマン道、経営道などと呼ばれるのも聞きます。「道」を生活のさまざまなことに関係づけて、特殊な意味を与えたり、一つの境地を究める営みにしてしまう。しかし「道」とはどういうことかということを知っている人は少ないと思います。私もそのうちの一人ですが。
 ある時、武道という言葉があり武術という言葉がある、剣道と呼んだり剣術と呼んだりする、その他、柔道、柔術、合気道、合気術など二つの呼び方があるのはなぜかと疑問に思うようになり、その違いをさがすようになりました。
 「術」についてはだいたい意味がわかるような気がしますが、「道」となると、大きく広く深い意味があるようで、はっきりしない。どうにかはっきりさせようとして、道教関係の本をさがしたり、老荘の本を読むようになりました。
 儒教にも「道」はある。その道は「仁・義・礼・智・信」といった徳目です。徳目を求め、究めて身に備えるのが道であると説いています。人の道と言えるのではないでしょうか。
 道教ではこれらの徳目は人為的な道で、人為的な道が発生する以前の道こそ本当の道であるという考え方です。このことを『老子』は次のように表現しています。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず……」と。人為的な道が発生する以前から存在する天地宇宙の根本原理が「道」なのだということです。 
 また、『荘子』の「知北遊篇」には「道がないところはない。どこにでもある……」と。宇宙のすべてのありようが「道」であり、宇宙のすべての現象を生み出し、生かしているのは気である。その気を知り、気の流れを知るには道を知らなければならないとも言っています。「道を求める」「道を究める」という言葉はここから出ているようです。
 老子は道を究めた姿を「無為自然」と表現しました。荘子はこの無為自然を受けて「虚無絶対(待)」、「絶対(待)無」と考えました。この宇宙の現象すべての気の流れをあるがままに感得し、体得した境地が「無為自然」であり、「絶対(待)無」である。その境地の世界を目指すのが、人間の真実な生き方である。道教はこのように教えています。

自我を捨てた柔らかい稽古を

―― 合気道をそのような道としてとらえると、まずどのような変化がありましたか。

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遠藤征四郎 合気会8段師範

どう出版

162円

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「行動している人」の原動力を探り、エネルギーを伝えるインタビューを中心に発信。 季刊『道』とその前身、武道・合気道研究誌 季刊『合気ニュース』からお届けします。 記事一覧 → http://www.dou-shuppan.com/interview/