妖怪"ここで降ろして"

時に、皆様のお住いの地域の公共交通機関は快適だろうか。
スマートにエスカレータ降り口付近で停まるドア、空いた車両、貴方はふかふかのシートに悠然と腰かけ、臨む美しい車窓からの景色はきっと貴方の通学・通勤時間を華やかに彩るだろう。
学校・職場の最寄り駅は広いホームの両端に十分な広さの階段が備え付けてあり、その隣にはエスカレーターまである。足腰にハンディキャップのある方、妊婦さん、ベビーカーをお連れの方はホーム中央のエレベーターで。

筆者の環境は上記の限りでない。

某日。時刻は夜8:30。ご立派に残業後だ。
毎日の通勤から生活のおでかけに至るまで、筆者の住まう賃貸の最寄りは毛細血管のようなこぢんまりとした私鉄がライフラインだ。規模はさほど大きくない。むしろ小さくまとまっている。このミニマリズム。そう、筆者の使用する最寄り駅は、利用者数の割に小さい。

それは別に構わないのだ。
今の物件はかなり気に入っている。沿線もそうだ。近隣の主要な駅へのアクセスが抜群に良く、家賃も筆者の心許ない懐から出せる程度にリーズナブルだ。

この日、筆者は憔悴し切っていた。
思わしくない仕事、納期のプレッシャー、上からの圧力、擦り切れかけの同僚へのプライド…業務での鬱憤がないまぜとなって、筆者の胸に重くのしかかっていた。
電車のアナウンス。ここで乗り換えだ。
がやがやとごった返すアフター8のホームを腰を物理的に低くして進む。
「~~奥の方までお進みください。次は〇〇駅、〇〇駅に停まります…」
車掌さんの声に導かれるようにして車内奥へと進む。
主要なビジネス街との連絡があり、この線はとにかく人混みがある。
人と人との間を掻き分け、吊り革を掴んで、ふと顔を上げた。
車窓が映す深淵の闇に、筆者の心なしかこけた頬と目の下を侵食する隈が所在なさげに反射していた。元より筆者の容姿は別段優れてはいないが、流石にこれは酷い顔だ、と内心自嘲する。時折、外を走る車両のヘッドライトが目を刺激する。筆者は残業終わりで、兎角疲労していた。

「…次はァ~、〇〇駅、〇〇駅。○○駅に停車後、次は○○駅に停まります…」
ノイズ交じりの案内に、意識が引き戻される。
次は筆者の降りる駅ではないか。

ここで、ふと、周りを見渡す。

周りで他に、次の駅で降りそうな人間が筆者しかいない。


数行前の記述を、読者諸君は覚えてくださっているだろうか。



──がやがやとごった返すアフター8のホームを腰を物理的に低くして進む。
「~~奥の方までお進みください。次は〇〇駅、〇〇駅に停まります…」
車掌さんの声に導かれるようにして車内奥へと進む。───────


────────────


「車内奥へと進む。」



そう、筆者は今、比喩とかでなく、普通に車両のド真ん中にいる。



ヤバい。降りられへん。



電車が減速する。
反比例して筆者の心拍数は次第に忙しなく高鳴る。

周りの人だかり。視線は皆、各々のスマートフォンに釘付けだ。



ヤバい。これ筆者以外誰も微動だにせえへんやつやん…

頼む、誰か一緒に降りてくれ、特に筆者の前の座席に座ってる人、頼む、貴方の家がここであってくれ…!
筆者の祈りは虚しく、誰も手元のスマホを鞄に仕舞わない。立つそぶりを見せない。


「○○駅、○○駅ィ~」
機械的な女声アナウンスが到着を告げる。刹那、駅メロ。
着いてしまった。
ここからは、ここからは一人で戦わなければならない…!

筆者は覚悟を決めた。

頭を低く垂れ、また、小刻みに更に細かく下げながら、そのか細い声を一定間隔で上げ続けたのだ。

「す、すいません…すいません…すいません…すいません…すいません、すいません…」

ギチギチの人混みを縫って行く。酷くやつれたサラリーマンが。ぼさぼさの頭を小刻みに上下に揺らしながら。機械的に、断続的に。

「すいません…すいません…すいません…すいません…すいません、すいませんッ…!」

周りの人間からすれば、さぞかし不気味だったことだろうと思う。おかげであの人口密度の割にすんなりと降りることができた。
自分でも思ったもん。「今の自分、こっっっっっわ…」って…

「すいません…すいません…すいません…すいません…すいません、すいません…」

これがプライドをかなぐり捨てた人間の姿だ。
醜く、不気味で、浅ましい。

それでも筆者は、この息苦しい世の中を明日も渡っていく。頭を低く垂れ、ぼさぼさの頭を小刻みに上下に揺らしながら、今にも掻き消えそうなか細い声を、機械的に、断続的に上げて。


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