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トロッコ問題とロッタリー・サバイバル

 ロッタリー・サバイバル(生きている人からくじ引きで臓器を摘出し、臓器移植による患者を助けるという仮想例)は受け入れられないのに、トロッコ問題では、躊躇なく死亡人数の少ない方を選択する(一般的な問題設定では、レールに倒れている人数がひとりの方に方向を変える選択をする)と直観できるのは、なぜだろう?
 功利主義の視点から見れば、ロッタリー・サバイバルは受け入れず、トロッコ問題では、一人が倒れているレールへの方向転回を認諾するというのは、矛盾していることになる(最大多数の最大幸福に反しているという評価になる)。

 その理由として自分が思っているのは、トロッコ問題では、どちらの人にも、「死すべき固有の理由」が存在しないからという点ではないかと思っている。つまり、トロッコ問題では、思考実験上の設定でとしてだけ、レールに倒れている者が「どちらかが死ななければならない」と条件づけられているように感じられるだけなので、この状況で、各人には「死すべき理由」でなく、「どちらかが死ぬ」という因果の設定だけがある(ように感じられてしまう)からなではないだろうか。

 他方、ロッタリー・サバイバルでは、臓器移植を受けなければならない者には、既に「固有の死ぬ理由」(具体性があって、迫真性がある)が具体的に与えられている一方で、くじ引きで臓器を摘出される者には、「死ぬ理由」が全く存在しないという、「理由」についての非対称性が存在している。よって、その非対称性、すなわち「死の必然性」を偶然によって転嫁しようという「ルール」に不道徳性を感じてしまうからなのだろう。

 勿論、トロッコ問題でも、トロッコが向かってくるという理由があるにはあるが、そのような状況は、2つのレールに共通しているという意味で、それを必然とみようが、偶然とみようが、対称的であり、くじを適用しても違和感がない分、介入に対する道徳的抵抗が少ないという感じを抱くことになるのだろう。
 他方、臓器移植でしか直らない疾病というのは、既に結果を甘受すべきものという状況を想起させる部分もある。
 要すれば、つまり、疾病という原因は、その病気の者に原因帰属しがちであるが、トロッコ状況は、その想定被害者に原因帰属できないという違いがあるのであろう。この辺りの違いが、冒頭の判断の差となって現れてくるのではないかと思っている。

※ヘッドの画像:《分かれ道のヘラクレス》
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Annibale_Carracci,_Hercules_at_the_Crossroads,_brighter.jpg?uselang=ja&fbclid=IwAR0l-2Czscb4nIjYG8qYCGAIs2uq1__kdscx1nyV9neJhc6AjumNOc284aA