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小松裕「『いのち』と帝国日本 日本の歴史14」

全集 日本の歴史 第14巻 「いのち」と帝国日本 p352

 戦争による犠牲者も、公害やコレラ・結核などの感染症による犠牲者も、帝国日本に抗して斃れていった人びとも、すべては田中正造が指摘した「悲命の死者」にほかならない。いま私たちに必要なのは、アジアの人々を含め、帝国日本の発展の陰に犠牲になった無数の「非命の死者」のいのちの叫びに耳を傾けることではないだろうか。
 私たちに、現在まで二万五〇〇〇人近い人びとがハンセン病療養所のなかで亡くなっている事実が見えているだろうか。薬害C型肝炎にみられるように、薬害問題も跡を絶たない。また、一九八八年以来、この国では一〇年連続で三万人以上の自死者を出している。人口三万人の市がまるごと消えつづけていることへの鈍感さは、いまも変わっていない。
 これ以上「非命の死者」を生み出さないためにも、私たちは、あらためて歴史に学ぶ必要があるだろう。

 これから、日本は、人口減少国家になる。
 これは、現在急激に出生率が上がっても、当面50年程度は変わらない人口学的事実だ(これらから、寿命を迎えるコーホートの層の人口が多いので、出産増では人口減少をカバーできないそうだ)。
 とすれば、おのずと「人の命」を大事にする政策や試みが再発見されるはずであろが、そうはなっていない。
 さらに、景気後退期には、もともと貧困レベルすれすれで、「溜め」のない家計にある人々が生存線の下にたたき落とされようとしている。あの派遣村のように。

 人の命を支えることが、慫慂され、評価されるような政策への移行がなされなければならない。なぜ、たかが通貨の費消を節約するやつがほめられるのか、なぜ、その通貨を身内に回すやつがほめられるのか。
 人の命を大事にするために、人の命をケアする人に報酬を、そして、そのために必要なら財政支出をいかようにでも工夫されるべき。
 日本は、戦前のような欧米列強に匹敵するための経済成長と戦争のために、国民・市民を根こそぎ動員しなければならないような状態にはない(そもそも、経済成長や戦争遂行も結果的に成功した訳ではない)。
 人の命を大事にする「支援型国家」に変わらなければならない。

 ブルシット・ジョブが無くならないのも、ケアワークが「やりがいの搾取」という構造に絡めとられるのも、小松氏の著作で指摘されている「鈍感さ」の故かもしれない。だから、この「やりがいの搾取」という言葉は重い。
 生活支援サービスを、低賃金の連鎖の中に落とし込ませてはならない。
 金融「博打」に血道を上げてバブルの再燃を期待しているような輩からは、金融取引課税、土地取引課税によってきちんと共助のための税金を徴収し、人間の生活をさせるサービス供給に資源を振り向けるとき。

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