人的投資としての社会保障観への転換
投資としての社会福祉
○社会福祉、社会保障の強化をさらに積極的に正当化する論拠として、「投資としての社会福祉」という概念がある。これは、社会保障国民会議でも提起されている概念であり、EUでは、若年労働者や女性の社会的包摂を検討する政策立案における思想的基礎となっている。
○昨今の様々な経済論断(床屋談義が多いが・・・)において、知識社会や人的資本という言葉が、マコトシヤカニ語られているように、今後の経済運営を考える場合に、「人」の問題を看過することはできない。
ただし、それは、これらの床屋談義が論じているような高等教育(理科離れ問題)や科学技術振興などという軽薄な議論ではない。必要レベルの教育を含む「健康で文化的な最低限の生活」から排除され、労働力として社会参加する機会も意欲も奪われている者を、どのように社会(再)参加への道筋を確保するのかというギギギリの深刻な論点として把握する必要がある。
物的資産はメンテナンスモード
○今後日本は人口減少国家になることは再三述べられているところであり、かつ物的ストックの生み出す付加価値が著しく低下しており、量的には充足していることから、基本的に物的資産についてはメンテナンス・モードに入っている。
○よって、将来の日本人のニーズや欲求を満足させるために必要なのは、生活支援サービスに代表される人的資産によって提供されるサービスなのである。これは、マズローの「欲求段階説」からしても当然の帰結である。
○とすると、日本人の高度要求を満足させるサービスを生み出す人的資本について、その需要は拡張していくことが必然である一方で、その供給は先細ることが同時並行で生じる以上、労働力の外に社会的排除される者を放置することは、壮大な社会的な無駄ということになる。
○将来の経済厚生、人間の満足を発生させる生産要素を蓄積するという「投資」の根源的定義に照らせば、少子高齢化とサービス化が同時に生じた日本においては、安定生活から排除されている者を、安定生活と生活支援サービスの供給システムへと包摂する社会保障は、今後の日本にとって最も必要な「投資」なのである。
○若年層、障害者、女性、失業者に対する生活保護、医療、保育(学童)、就労支援等の社会保障は、この意味での典型的な「投資としての社会保障」である。
分業視点での社会保障再考
○高齢者医療、年金や介護については、この「投資としての社会保障」という概念では正当化できない部分があるのかもしれない。ただし、ここで考えなければならないのは、これらの生活能力の減退した高齢者の生活レベルを維持することを社会でユニバーサルに保障しなかった場合、これを個々の親族等が救済することになってしまう。これが、本当に効率的な人的資源の活用と言えるかどうかが問題となる。
○つまり、高齢者医療や介護のニーズを社会的に放置して親族等に「押しつける」場合、その親族等は何らの専門性を発揮することなく、サービス提供へと「引きずり込まれる」ことになる。これは、資源配分上の効率性を著しく害している。とすると、生活支援サービスを非経済(親族提供)から解放し、経済化させることには、「投資」という側面が著しく強いということができる(社会保障を充実することにより、スキルへの投資=人材育成が増強されることも確実である)。
○年金については、どのような負担構造(賦課方式か、積立方式か、税か社会保険料か)をとったところで、現役世代が生み出した財・サービスを高齢者世代が消費するという仕組みを支えるものであること自体は、実物経済的観点からは、変わりがない。
○とすれば、高齢期の生活ニーズをどの程度、顕在化させて、現役世代の労働成果とのマッチングを効率的に図るために、どの程度の年金支給水準を確保することが、資源配分を効率化するかという観点から、精査されるべきものとなろう。
○というのも、高齢者への公的リソース配分を絞り込みすぎれば、現役世代による私的サービス提供という「非効率」がまかり通ってしまうことになるからだ。この点では、年金については、投資という側面を肯定できない要素が強いと言わざるを得ないものの、ある程度のリソース配分によって、非効率削減という生産性向上が期待できる部分については、「投資」的側面を肯定できるのかも知れない。
○また、動学的効率性条件(投資収益率、金利が経済成長率より高い)が成立しない経済においては、消費によって経済は「成長」するのであり、年金制度による世代間移転(更に、重要なのは世代内相互扶助)の強化は、その限りにおいて、経済成長にプラスの効果をもたらすことなることは、付言することができよう。
<冒頭の絵画>
社会的な相互扶助を、スティグマを与えない形で実現していた「落ち穂」を描いた、ミレーの「落ち穂拾い」をチョイス。