見出し画像

負の連鎖を断ち切ることを強く誓って、私は今日を生きている。



「もういい、あんたなんか出て行って!」


決して広くないアパートの一室でまだ1歳にも満たない妹が顔をくしゃくしゃにして泣き叫ぶなか、その泣き声よりも大きい耳をつんざくような悲鳴にも似た声が聞こえた。

私にそんな言葉を吐き捨てた母親も、泣いていた。なんで母親が泣いていたのかあんまり覚えていないけれど、きっとこのとき家にいなかったギャンブル依存症の父親が原因だろう。いなかったのも、パチンコに行っていたからだったような気がする。

そのとき、私とひとつ年下の弟は夜ご飯を食べていた。メニューはたしかご飯とツナ缶だったと思う。好き嫌いが激しかった弟にはちょうどいい夜ご飯だったかもしれないけれど、反対に何でも食べれた私にとって夜ご飯がツナ缶だけというのは少しだけ物足りたなかった。これがたまにならいいのだけど、夜ご飯がツナ缶や納豆、ウインナーだけなのは毎日のことだった。それに加えて母親の機嫌を損ねると、食べさせもらえない日もあった。電気や水道が止まっていたこともある。ギャンブル依存症である父親が原因で、両親は多額の借金を抱えていた。夜ご飯のメニューも、よくある手抜き感覚のものとは違う。ただ単に、生活が苦しかったのだ。

そんな環境で、夜、一人で幼い子供を3人抱えていた母親の気持ちを慮ると怒りたくもなるし泣きたくもなる。しかし、母親が私に吐き捨てた言葉は決して許されるものではないだろう。その言葉は、私が大人になった今でも消えてはくれない。ずっと、心の奥底に悲しい記憶としてまとわりついていた。

なかなか泣き止まない妹に、母親が泣き叫びながら怒りをあらわにしていた。そのときに床に散らばったおもちゃを投げ捨てているのも、もう見慣れた光景だった。

ただ、光景には見慣れても恐怖心はずっとあった。私も、このときはまだ小学一年生の幼い子供である。弟なんて、もっと怖かっただろう。二人で並んで味がしないご飯をかきこみながら、そっと弟のことを見るとシクシクと泣いていた。しかし、私はなぜだか泣けなかった。いや、泣いたらいけないと思った。

「大丈夫だから、食べようね」

「......うん」

わたしはお姉ちゃんだからしっかりしなきゃ、と思ったのだ。毎日のように繰り広げられるこの光景に、まだ子供である私はこれ以上、どうすれば良かったのだろう。そんな変に冷静な態度でいた私のことが、どうやら母親は気に入らなかったらしい。泣くのを堪えながらご飯とツナ缶を食べていた私を鋭く睨み付けると、「出ていけ!」と言った。その瞬間、私の胸にご飯じゃない何かがつっかえた感覚がしたことを今でも覚えている。そのつっかえは悲しみや苦しみの感情だ、と気付いたのはずいぶんと大きくなってからのことだった。

母親に従わなければ私たちに明日は無いので、私は言われた通りに家を出ていった。

その日は、激しい雨が降る日だった。それでも、出て行くしか無い私は傘も持たずに家を飛び出た。もうどうにでもなれ、という気持ちも微かにあったような気がする。

家を出て行くと言っても、まだ小さかった私が行ける場所は限られていた。結局、アパートの駐車場にあった屋根があるスペースで膝を抱えて座り込んだ。雨と、地べたがひんやりとしていてとても寒かった。


どれだけの時間が経ったのかは分からないけれど、正気に戻った母親が迎えに来るまで私はずっとそこにいた。その間、何を考えていたのかはぼんやりとしか思い出せない。

母親はそこにいた私を見て安堵した表情を見せると、「ごめんね」とだけ言って私の手を引いた。

母親を許すのか、許さないのか。私はまだ答えを出せずにいる。



時は流れて、私も四人の子供を持つ母親になった。10代で結婚をして、長女を産んだ。正直、学歴も無いし、周りのお母さんのように安定した職に就いているわけでもない、掃除や料理が得意なわけでもない。母親としてのスキルを問われると、何ひとつ満足に出来ていない。

でも、こんな私でも過去に体験したことから母親として子供と接する上で大切にしていることがいくつかある。


まずは、一日に一回は必ず抱き締めることだ。

私は、両親に抱き締めてもらったり手を繋いでもらった記憶が無い。抱き締めてもらったり手を繋いでもらえるのは、いつも泣き虫な弟か、年の離れた妹のほうだった。「しっかりとしたお姉ちゃん」である私はいつも一人だった。今思えば、人肌の温もりに飢えていたように思う。本当は、寂しかったのだ。

だから、私は四人の子供たちに毎日のように一人残さずハグをする。「お疲れ様」、「ありがとう」と声を掛けながら抱き締めるときもあれば、何も言わずに抱き締めることもある。子供ってなんでこんなに温かいんだろう、と思いながら抱き締めると、私の胸のなかでどの子も嬉しそうに笑ってくれるのだ。ときには、子供のほうから「ぎゅーして!」と腕を広げてやって来てくれることもある。幸せだな、と思う。親と子が抱き締め合うと、こんなにも温かい気持ちになれるんだと初めて知った。


そして、目線を合わせて会話をすること。

子供を"一人の人間"として接することを肝に銘じている。どれだけ忙しくても、話を聞くときは必ず手を止めてから視線を合わせて会話をする。小学生になった長女と次女は身長も大きくなってきたけれど、まだ四歳になったばかりの長男には目線を合わせるために屈むこともある。子供だからといって、絶対に会話をおざなりにはしないように心がけている。もちろん、そんな余裕が無いときもあるけれど。出来るだけ、同じ目線に立って一緒に物事を考えたいのだ。


次に大切にしていることは、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うこと。

特に、「ごめんね」はしっかりと言うようにしている。私も親である前に一人の人間だ。ときには間違えることもあるし、それによって子供を傷付けてしまうこともある。私も幼い頃には母親にたくさん傷付けられた。でも、母親から「ごめんね」と謝ってもらえたことはほとんどない。だから、私は自分が間違っていると思ったらちゃんと子供の目を見て謝るようにしている。

そして、子供は簡単に親を許してしまう。小さな子供の立場になって考えると、そうするしかないのだ。なぜなら、子供の命は親が握っているから。そしてなにより、子供の親に対する愛情はとてつもなく深い。だから私は、子供たちの優しさと愛情に甘えないようにしたい、と強く思っている。そして、こうも伝えている。「誰かに謝られたときに、その人を許すも許さないも、あなたの思うようにすればいいよ。ただ、許せないのであれば、それは心のなかだけにしておこうね」


そして最後に、「あなたが生まれてきてくれて幸せだよ」と伝えることだ。

何でもないときにぎゅっと抱き締めて、その言葉をかける。今はなんてことなくても、いつかこの言葉が子供たちを守ってくれることを祈っている。

「あなたの存在そのものが、大切なんだよ」

そのことがちゃんと子供たちに伝わっていたらいいな。



機能不全家族で育った私にとって、子育ては自分の過去を見つめ直す時間でもあった。子供と接していると、「私もこうして欲しかったんだな」と気付くときがある。もしかしたら幼い頃の私と、子供たちを重ね合わせることはあまり良くないことかもしれないけど、悪いことだけじゃないと思う。私は両親の温もりが欲しかったし、「大好きだよ」とか「大切だよ」という愛の言葉も欲しかったし、「ごめんね」と謝って欲しかった。

子供たちはなにより、親の愛情を求めている。そのことを私は身をもって知っているから、これからも言葉や体温でありったけの愛情を子供たちに伝えていきたい。

良い母親になるためじゃなく、子供たちが健やかで豊かな人生を歩めるために。

どんなことがあっても、子供たちの心を尊重することを私はなによりも大切にして日々、子供たちと向き合っている。


きっと、私の母親も愛されたかったのだ。母は愛情を知らないまま親になり、愛情を与える術を知らなかった。悲しいことに、こういった負の連鎖は下の世代へと繋がってゆく。そのことに気付けた私に出来ることは、この連鎖を断ち切ることだ。

悲しくて苦しい思いをするのは、私の世代で終わりにしたい。

私に出来るかは分からないけれど、この負の連鎖は断ち切らなくちゃいけないんだと強く誓って、私は今日を生きている。





よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはライターとしての勉強代や本の購入に使わせていただきます。