見出し画像

When spring comes

また1年が経ったのだと気づく。
きっかけは春だ。
春(正確には1〜5月)になると、どういうわけか毎年、低空飛行のフェーズに入る。さらにおおよそ4年に1度、超低空飛行のフェーズに突入してしまうのだ。今年は記念すべきその年のようだ。
1人オリンピックでもしているのか。なんのギャグだ、と自分でも思うが、こればっかりは仕方がないのである。こうやってほらほらまたきたよと、達観できるようになったのはここ数年のことだ。

こんな話をぽつりと話したらば、普段の私をよく理解している人は、「いやお前、春に限らず年がら年中ネガティブだろ」というだろう。そう、元々ネガティブな人間の超低空飛行など、見苦しすぎる。見せまいと虚勢を張るしかないではないか。こうして春が来ると私は、人付き合いはほどほどに、引きこもりや1人行動、友達リセットキャンペーンを横行させてしまうのである。

この時期いつも思う。なぜ春なのか、と。
私は春生まれだ。
私が生まれた記念すべきこの季節になぜ毎年絶望しているのか。
夏生まれは冬より夏を好むのではなかったのか。
あれは迷信なのか。
何十回もこの問いかけをしてきた。
未だに答えはない。
しかし、こんなにも試練を与えてくる春は、
甚だしく厄介曲者でしかないが、決して嫌いということではなく、むしろ好んでいるのでは、出迎えているのではないか、と思うようになった。
(ただMなだけかもしれないが。)

ちなみにこの超低空飛行状態とは、
私を構成する全てに不合格のレッテルが貼られたような感覚だ。自分自身を無価値だと言い聞かせているかように、渦巻く思考に対して負のツッコミが止まらなくなる。

私は普段から、何かを考えずにはいられない人間だ。それを欠点とは思わない。思考を巡らせ、巡らせた思考から得られた表現を言葉に起こす作業を心から楽しんでいる。
ただ、春はそれを邪魔するのだ。
巡らせた思考から生まれるものは、大抵ドブのように粘性が高く、暗く光沢のない哀しみとなる。
これがめちゃくちゃしんどい。
昔の私は耐えられなかった。

ただ、この感情は使いものになる。
そう気づいたのはここ数年だ。気づきが達観できる自分を生み出したのかもしれない。
薄暗い絶望感の中で生み出すモノは質が上がる。
作業に没頭し続ければ、思考の産物がドブからヘドロになることはない。
粘性は高いがへばりつくことはない。コントロールできる。

春になったら、手を動かす。 

今のところ、それしか解決法はないが、
この暗くドロドロしたものを利用する時間は嫌いではない。むしろ好きだ。だから耐える。

重たいモノたちを生み落としたところで夏になる。きっと今回も軽々と旅に出られるようになるはずだから。