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CIRCLE '23の日記

福岡のCIRCLEというフェスへ行ってきた。
Tempalayや綾斗さんのライブはどれも忘れたくなくて、でも忘れてしまうので、少しでもその時の気持ちを覚えていられるよう日記を書き始めた。
今まで行ったどのライブも特別に違いないのだけれど、この日のライブはいつも以上に忘れられない日になるだろうな!と感じた。

今回行ったライブ

・5/20(土) CIRCLE '23@海の中道海浜公園 野外劇場(福岡)

しまうまさんとの出会い

CIRCLEへ行くことを決めた一番の理由はTempalayが出演するからだ。二番目に、今年2月に糸島で開催された綾斗さんの弾き語りライブで会った方々にお会いしたいという気持ちもあった。
「人に会いたい」だなんて、過去の私が聞いたら「嘘をつくな」と言いそう!そう思えるようになったのは、しまうまさんとの出会いが大きいのでそこから書く。

と言いつつ、しまうまさんとの出会いは結構前で正確には覚えていない。お互い読書が好きでTwitterで知り合ったと思われるが、本の好みはまあまあ違うし不思議である(有栖川有栖先生が好きなのは同じ)。
親しくさせていただくようになったのは、2019年に愛知県へ旅行する際にお会いしたことがきっかけだったと思う。どちらかと言えば朝型人間の私、愛知県にモーニング文化があると知ってからずっと行ってみたかったのだ。
名古屋を案内していただきながら一緒にかき氷を食べたり、ケーキを食べたり、楽しく過ごさせていただいた。
夜行バスの乗り場がある「太閤通口」が読めないし分からないと言ったら(調べろ)、そこまで案内してくれたことを今でも覚えている。がま口タイプのブックカバーを買いたいと言ったら、売り場まで連れて行ってくださったこととかも!

2020年、Tempalayの愛知公演のチケットを取ったので会えないかと思い連絡したら予定が合わずお会いできなかったのだけれど、おすすめのお店を教えてくださった。結局Tempalayのライブ自体が中止になってしまい、愛知県へ行くことはなかった。悲しみ。
その後も愛知県行きが決まるとご連絡させていただき、その度に色んなお店を教えていただいた。
実際にお会いしたのは一度しかないものの、すご~~~くお世話になっているので「お礼のため、お菓子を箱詰めにして送らせてください!」と、お伝えしたことがきっかけで、お菓子交換をさせていただくことになった。私がお礼で送るつもりだったのに、しまうまさんからもいただいているという。

しまうまさんは、お菓子はもちろん、文具や映画など色々なものをおすすめしてくださる。それがとてもうれしい。
ロルバーンというノートもプレゼントしていただき知った。このノートがなかったら落書きをしていなかったし、落書きから生まれたぬいぐるみをつくることもなかったし、ぬいぐるみに洋服を作りたくてミシンを買うこともなかったと思う!連鎖。

ミシン!(部屋を片付けた時に撮った)

アニメや漫画を布教されて好きになったとか、友人に布教したとか耳にしたことがある。何かをおすすめ(布教)すること、誰かに積極的に働きかけることが苦手だ。「読んで感想を伝えなきゃ」とか「おすすめされたから聞かなきゃ」とか強制してしまいそうで怖い。自由な時間を奪ってしまいそうで怖い。
相手に否定的な態度を取られて傷付く可能性が少しでもあるなら何もしない方が良いという、思考回路の悪い癖……。誰かに対して積極的に働きかけられる人は、自分が傷付くかもしれないリスクより、相手を思う気持ちの方が強いのかと思う。

私の「人と関わりたくない」殻を破ってたくさん働きかけてくれるしまうまさんからは得ることが多くて、とても感謝している。
福岡は遠いし、フェスはワンマンライブよりチケットが高いのに曲を聴ける時間が短いし、会社を休まないといけなかったので参加するかどうか悩んだ。でも糸島の弾き語りライブで会った方々が参加されるし行きたいなあという気持ちが生まれて行くことにした。

いつもより積極的になって行動に移せたのは、ヘンテコ発言多めの私と仲良くしてくださり、ずっと働きかけてくれるしまうまさんとの交流が大きいのだ。
日記に書くのをOKしてくださり、ありがとうございました。書いたら読みますと言ってくれてうれしい&恥ずかしいが、しまうまさんとの出会いによる心情の変化をうまく書けた気がしない!
いつも、とても感謝しております。しまうまさんにメッセージを書くと激重になりがちで申し訳ない!と思っているKより。

4月のお菓子交換会

糸島の弾き語りライブ

糸島の日記に書いた、ライブ会場から駅まで送ってくださったお二人がCIRCLEに参加すると聞いていたので、私が参加できることになったら連絡することにしていた。
CIRCLEへ参加を決めたのは開催日より結構前だったが、「ただ車で送っただけの私と会っても楽しいことないよな……」と、いつもの悪い癖でぐずぐず考えて結局連絡したのは二日前。
その上「もし会えたら会いましょう」的な、具体的な時間と場所を指定しない逃げ腰メッセージを送った(本当にひどい)。にも関わらず、当日「どこにいますか?」と連絡をくださりお会いすることができた。改めて感謝の気持ちを伝えられたか不安だ。

高校生の頃、「見返りを求めてしまうのをやめたい」って悩んでいた自分のこと覚えている。お二人は「自分が何かしてあげた」って気持ちすらなさそうで、そういうところも見習いたいし素敵だと思った。
特定の誰かをあげつらうつもりは全くないが、人によっては「誰かを救いたい」って気持ちで曲をつくり歌っている人もいると思う。その精神は素晴らしいことだし、それで救われる人もいるに違いない。
綾斗さんは、自分のつくった曲で誰かを具体的にどうにかしたいって気持ちはない気がする。あったとしても優先順位は低いような気がする。
本人が意図していない、計算していないところにその人らしさは出る気がするし、そういうところに「いいな」って思うことが多い。きっと。
長年「あなたらしく」とか「自分らしく」ってよく聞くもののどういうことか分からない!って思っていた私。「自分らしさ」とは、自分自身で認知できないものなのではないか?と、思ってきた。

お二人は、私が「車に乗せてください」って頼んだのではなく、「二人までなら乗れるので乗っていきますか?」と声を掛けてくれた。
声を掛けなければ厄介事に巻き込まれないから、困っている人がいても見て見ぬふりをしがちだと思う。思わない!?しかもその時の私は困った感じを出していなかったと思う。
お二人も他人に対して積極的に働きかけられる人……ご本人は「大したことしてない」って感じだったけれど、やっぱり私からすると「すごい!」って思う出来事だった。お礼にお酒を奢らせてくださいって申し出たら、「いやいや」ってお断りされた。謙虚。

逃げ腰なメッセージではあったものの、人に対して積極的になってみた。「時間を奪ってしまって申し訳ない」みたいな気持ちは消えるわけではない、傷付くかもしれない恐怖が消えるわけではないけれど、自分から働きかけた結果って悪いことばかりじゃないんだ!と気付けた。すごく当たり前のことを書いている気がする。悪い方に考えるのが癖だ。まずは気付くところからだよ(言い聞かせ)。
私は本当に要領が悪くて、処世術とか無縁すぎて、腑に落ちる体験をしないと「そうか!」って思えない。ひどく効率が悪い。
対人関係における成長スピードが通常の5分の1くらいな気がするので、100歳になったら成人式を挙げたいと思う。あ、今は成人が18歳なのか。計算めんどくさい!

飛行機雲に気付けるところ

今回のフェスで、糸島のライブ以来にお会いできたのがTwitterのフォロワーのやっこさん。お子さんにははじめてお会いした。
最初に「お子さんと会わせてくださるって何!?」と、思った。自分の大切な人を得体の知れない人に会わせるってできない。人じゃなくて物でも嫌だ。不審人物に自分の免許証は見せたくない。
何度かお会いしたことがあるものの、私のことを信用してお子さんとも会わせていただけたことがうれしかった。

とはいえ、日常的に小さい子と関わることが全くなくて接し方が分からなさすぎた。何かの本で相手が子どもだとしても、子ども扱いせず対等に接することが大事って書いてあったような気がする。記憶違いか?事前に調べて来れば良かった。いや、そんな教科書通りに接しても……とか、頭の中が大忙しだった。
最初こそ緊張していたものの(主に私)、Tempalayのライブが終わるとたくさん話し掛けてきてくれて、ぐちゃぐちゃ考えていたことが消えていった。見ず知らずの私にたくさん話し掛けてくれる積極性……。
これは想像を超えて妄想の域に達しそうだが、糸島のライブの綾斗さんはこんな気持ちになったのかなあと思った。あったかい。終演後に手を繋いでくれて、「子どもの手は本当にあったかいんだ!」と思ったりした。

Tempalayのライブが終わったらレジャーシートに座ってのんびりライブを見ようかなくらいに思っていたが、テントに招待してくださり(お子さんがお迎えに来てくれるという感動)終演まで半日以上ご一緒させていただいた。
Tempalayのライブに行くと、MCや感じたことを少しでも覚えていたくて終演後は記憶と感情の文字起こしをしていた。終演後に人に会う予定があるとメモができない。ものすごいスピードで忘れてゆく。
今までの私だったら「メモを取る時間をくれ!」って思いそうだ。でも2月の九州弾き語りツアーからファンの方とお話させていただく機会が生まれて、そういうのも込みでライブって良いなと思えるように変わってきた。記憶を振り返る時にステージ以外の風景を思い出すことができるって良い。

やっこさんがお子さんを連れてくるとは事前にお聞きしていたので、シャボン玉を買っていった。近所の子どもがシャボン玉で遊んでいるのを見掛けてから、久し振りに私もやりたくて!一緒に遊ぶことができて楽しかったな。記憶に残したい風景が増えた。

シャボン玉を撮るのは難しい。

長岡亮介さんのライブを観ている時だったか、お子さんが「飛行機雲だ」って言ったのが印象的だった。高校生の時に参加した講演会で、余裕がない時こそ空を見上げる心のゆとりを……みたいに言われたことを思い出した。
せわしない生活を送っていると、どんどん視野が狭くなってゆく感覚がある。だから飛行機雲に気付けるところが、すごく良いなあと思った。
お子さんと同じ目線に立ってみたら、大人達の足でステージが殆ど隠れてしまい面白かった。座ってみると、芝生を歩く蟻が見えた。いつもは立っていて視界に入らないが、小さい子もいっぱい来ているんだなあと思った。
一人だったら気付けなかったことにたくさん気付けて、とても幸せな一日だった!

これはテントエリアから見た飛行機雲。

やっこさんは、私の日記を読んでくださる唯一レベルのお方だ。もし私が、他人として自分の日記を読んだら「人と関わるの嫌いそうだし話し掛けるのやめよ」ってなると思う。「こいつに話し掛けたらめちゃくちゃ嫌な顔されそう」って思う!
それなのに声を掛けてくださるのありがたいし、うれしいし、そういう優しさがお子さんにも受け継がれているなあと感じた。

日記に書いた方々みなさん素敵な方で、関わってくださりありがとうございますの気持ちです。

ストローがたくさん付いてきたシャボン玉。

ライブの感想(Tempalay)

やっとライブの感想日記を書く。書き留めておきたいことがたくさんあるってうれしい。

リハで、『どうしよう』、『のめりこめ、震えろ。』、『大東京万博』を演奏した気がする。本番でも全て演奏した。
あとは『あびばのんのん』、『ああ迷路』、『とん』、『そなちね』、『革命前夜』、『未知との遭遇』、『my name is GREENMAN』だったかな……あまり自信がない。公式でセットリスト出るかな。

この前、フードエッセイスト・平野紗季子さんの『生まれた時からアルデンテ』を読んだ。

解散しても音楽は聴けるし、画家は死んでも絵は残るけど、
レストランばっかりはそういうわけにもいかなくて。

平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』171頁

この部分を読んで「確かに」と思った。レストランがなくなったら料理を味わうことはできない。味だけでなく空間も失われてしまう。
平野さんが書かれた文脈から外れてしまうけれど、ライブはその場所でしか食べられないレストランの料理に似ている気がした。バンドが解散しても、曲をつくった人が亡くなったとしても音楽は聴ける。私はデヴィッド・ボウイの曲を聴くことができる。
でも解散したり、亡くなったりしたら、ライブに行くことはできない。音楽が残る分、レストランの閉店よりは救い(?)があるのかもしれないけれど。やっぱりライブに行きたい、その瞬間にしか得られない気持ちを大切にしたい。
1曲目が『のめりこめ、震えろ。』だったことだけ覚えている。歌詞に「一瞬」ってあるのが好き。自分にとって大切な一瞬を見逃さずに生きてゆけたら良いなと思う。

この日のベースもODD Foot Worksの榎元駿さんだった。BREIMENは別のフェスに出るから祥太さんでないとは思っていた。
祥太さんの時は『my name is GREENMAN』でベースソロを演奏していたが、この日は違う曲で駿さんの紹介があった。なんだっけ!忘れてしまった。『とん』か?今までにないアレンジが新鮮だったし、かっこよかった。綾斗さんが何かの曲で駿さんの方に寄っていかれてたのも良かった。
音源だと『とん』の「(便乗系)」とか「(煩悩で)」の部分は綾斗さんの声だけれど、この日のライブでは確か夏樹さんとOCHANさんが歌っており良かった。駿さんも『そなちね』か何かの曲でコーラスされていた。ライブだとAAAMYYYちゃん以外のコーラスも聴くことができて良い。

同じことを何回書くのかと思いつつ、日記には同じことを何回書いても許されるので書くが、『大東京万博』の「らっせーら」のAAAMYYYちゃんのかわいさよ。この時は絶対にAAAMYYYちゃんを見てしまう。手の広げ方までかわいい。その後の綾斗さんのギターパートがかっこいいので『大東京万博』は感情が忙しい。
でも『大東京万博』は、私の中でジャンル:静けさに分類してある。この日のフェスに参加して、静けさとは音がしないことじゃないって改めて思った。ライブを音の大きさで測定してしまうと決して静かとは言えないけれど、そうじゃなくて、観客がステージの音に耳を澄ませる状態を私は静けさと感じ取るんだなって思った。
綾斗さんの激しいギターパートからの静けさと、その後に続く夏樹さんの地面から鳴り響くようなドラムと(夏樹さん右側にあるドラムの音が好きな気がする)(名前が分からない)、美しいAAAMYYYちゃんのコーラスと!静けさを強調させる意図があるかどうかは分からないが、そう感じられる表現の数々が大好きだ。
ひとつ気になるのは、「あなたは面白く輝いて~」の部分で祥太さんはベースの傾きを変えるけれど、駿さんはそれをやらないところ。技巧的なことを何も知らないから、何か意味があるのかないのかも分からない!気になる!

『革命前夜』のベースが良いって、この日はじめて思ったというか、今まで『革命前夜』のベースを意識したことがなかったことに気が付いた。具体的にどこというのは忘れてしまった。すごく良かったっていう感じだけ残っている。
フェスと同じ日に、6月からはじまるツアーのリクエスト投票結果が発表された。1位は『革命前夜』!弾き語りライブで綾斗さんは『革命前夜』はたくさん歌ったから飽きたみたいなことを仰っていた。やるかな、やらないかな。楽しみ。

去年参加したFFKTでも感じたが、野外ライブはライブハウスよりもみんなの楽しそうな感じが伝わってくる。この日は特に綾斗さんの笑顔が多かった気がする。

2023年5月20日のツイート

そして、こういうツイートをされることもあまりない気がして……(「😢」!)。

何故か分からないが惹かれるものがある。私は記憶というものに惹かれ続けている。だから、この本には記憶に纏わることが書いてありそうだって思うと手に取る。
今読んでいる西塔由貴子先生の『ホメロスと色彩』もそうだった。

本来語り物であったホメロスの叙事詩も、記録された瞬間から臨場感は薄れた。その一瞬を大切にする必要がなくなった。記録することの無い時代の作品のほうが、表現に活き活きとした躍動感に溢れ、鮮やかな色の輝きよりも煌めいていたのではないか。

西塔由貴子『ホメロスと色彩』72頁

私がずっと考え続けていることに近い!

ホメロスは、古代ギリシアの『イリアス』や『オデュッセイア』などの口承叙事詩の作者と考えられている人物だ。
文字の存在が当たり前すぎてうまく想像できないけれど、かつて人々は聞いて話してコミュニケーションを図っていた。文字がないから記録することはできなかった。
録音して後で聴くことはもちろん、語られたことを書き取ることさえできなかった時代!たとえ私が他の人よりも「忘れたくない、覚えておきたい」って気持ちが強かったとしても、文字のない古代ギリシアの人々の必死になって理解しようとする姿勢には及ばない気がする。

最初にも書いたように、私はTempalayや綾斗さんのライブを忘れたくなくて日記を書き始めた。
もし私が全てを記憶できる人だったら?MCを一字一句違わずに覚えている。どんな動きをしたか覚えている。五感の全てを覚えている(味覚はないか)。んー?こうやって考えてみると、事実を覚えておきたいわけではなさそうだ。
ファン心理としてAAAMYYYちゃんがあの時こう言ってたとか覚えていたいという気持ちはあるけれど、コンピュータのように事実を記憶したいわけではないんだ。
MCで何を話したとか、どんな抑揚だったかとか、それは録画すれば事足りる。綾斗さんの弾き語りライブで撮影OKだったことが何度かある。当たり前だけれど映像を見返しても、その時に感じたことがありのまま再現されるわけではない。その会場にいて、曲を聴いている瞬間に勝るものはない。やっぱりその一瞬を大切にしたい。

「本来語り物であったホメロスの叙事詩も、記録された瞬間から臨場感は薄れた。」って、なんだか分かる気がする。ライブの出来事を忘れたくなくて日記を書き始めたのに、日記に書くことでこぼれ落ちてしまう記憶や感情があるってずっと感じながら書いている。
記憶の中にスポットライトが当たったように明るいところと、薄暗いところ、真っ暗なところ、色々あって、私は明るいところから日記に書いてゆく。そうすると、光が奪われて薄暗いところはもっと暗くなってしまう(忘れてしまう)ような感じ。私が日記に記した(記録した)瞬間から、消えてしまう何か。失われる何か……。

「ホームラン」の日記にも似たようなことを書いたけれど、たまにライブを記憶しているのか、記憶を記憶しているのか、はたまた記録を記憶しているのか分からなくなる。「コンピュータのように事実を記憶したいわけではない」って思ったのは、記録を記憶したいわけではないということ。
じゃあどうすれば良いの?って難しいよね。

ずっと届かないもやもやした何かがある。手を伸ばす先に何があるのかもよく分からない。何もかも分からないのに「これだ!」って思える日は来るのか?謎。
文字が発明される前の古代ギリシアの話は、なんだかヒントになりそうな気がする。言語化できない感情、非言語の表現……その辺りにもやもや鉱脈がある気がする。
Tempalayの音楽も、もやもやを刺激してくれる。不思議。だから聴き続けて、激長日記を生成してしまうのか。

いきなりライブの話に戻るが、『あびばのんのん』の時にどこからかシャボン玉が飛んできてきれいだった。私以外にもシャボン玉を持ってきた人がいたのかな。「眩ゆしあちこち 見惚れちゃってうっとり」とか「うつろい短し」って歌詞にぴったりの光景。
記憶も、感情も、シャボン玉のような消え方ではないにしても、あっという間に消えていってしまう。私は変に諦めが悪いので「それで良いのかなあ」ってずっと悩んでしまうのだけれど、綾斗さんが「本音の奥のもっと奥ほど 忘れないんだよ その瞬間を」って歌っているのを聴くと、大切な瞬間はちゃんと私の中に忘れずに残っているのかなとか思う。
そういえばやっこさんのお子さんが、時折『あびばのんのん』を口ずさんでいてとても良かった。途中で歌詞を忘れちゃったのか、ほにゃほにゃってなってたけれど何かのライブで綾斗さんも歌詞を忘れてほにゃほにゃしてたことを思い出した(自分の日記によると恵比寿てんぱれい祭りの2日目)。忘れてもいいじゃん!

記憶を記憶していたとしても記録を記憶していたとしても、覚えておきたい何かがあるって、その事実だけで幸せな気がする。でも私は答えの出ないことで悩み続けるプロなのでこれからも考えてしまうのだろうな。

旅に付き合ってくれたアヒルちゃん。