見出し画像

ドラマ『テセウスの船』正しさの限界を見た。(ネタバレなし。)

原作漫画は読んでおらず、ドラマ放映時はなんだか話題になっているようだと流していた。
娘がサブスクでドラマを視聴していて、私は前半は家事をしながら途中から参戦。
わからない箇所は娘に説明してもらいながら後半からがっつり視聴。

おそろしいことに、テレビ放送終了後にネットで「犯人は○○だった」と散々言われていたことをふいに思い出してしまい、嘘であってくれと思いながら最後まで走った。けっきょく○○だったな(笑)

娘とドラマや映画を視聴する時はわりと活発にあーでもないこーでもないと会話をする。
今回、会話によく出てきたワードは「そこまでする価値があるのか」。
この行動で誰かの、あるいは自分のためになるのかどうか、という話し。

私たちは特段、打算的ではないし冷静でもなく、むしろ感情的で衝動的な性格が共通している母娘だ。
だが、たいせつな感情をつかってわざわざ行動に移すなら、なんらかの望ましい結果を手にしたいと考えてしまう。
緻密に企てた犯行に手を染めるなら尚更、その労力に見合うほどの成果が得られて当然だろう、となる。

真犯人に至っては、あの結末で心情的によかったのか?と思わされた。

動機から犯人を当てようとして、ふたりであれこれ考えていたが、ひとを殺めるまでの気持ちになったことがないため難しかった。


「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」


という広告が以前、話題になった。
2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」の最優秀賞を獲った作品でタイトルは「めでたし、めでたし?」である。
この広告がメディアに現れてから、鬼の子ども目線で考えるような、これまでの通説を疑って別角度でもうひとつのドラマを語ろうという流行りが生まれたように思う。

『テセウスの船』を観ながら私はこのことを思い出していた。

一般に正しいとされる行動は実は一部のひとにとっての正しさに過ぎず、細かく見て行くと、ほかの者にとっては不幸にもなる。
「正義の味方」という台詞が劇中によく登場した。
これは実は危険な考え方だと思った。

良い意味でも悪い意味でも世の中が大きく変化したいま、「多くのひとに支持されている」というだけの理由で正義を決めてしまうのは、雑すぎる。
それぞれの立場によって受け取り方が違うし、違ってもよい。
一方的に正義が悪を裁くという安易な思考パターンから抜け出し、いま一度、その行動が自分や仲間にもたらすものはなにか、考える習慣を持つ必要がある。
すべてのひとにとっての最適解などは存在しないので、けっきょく自分や周辺の仲間にとっての最良の選択を採るほかないのだ。
踏み込んで言ってしまうと、もはや大きな正義などなくなった。
あるのは、自分の属するコミュニティの定義するルールくらいだ。

族のルールさえ守ればなにをしても大丈夫と言いたいわけじゃなくて、世界のため、みたいな大きい行動目標を掲げても実際にはそれぞれ小さい単位の要望には応じきれないってこと。

身の回りの最小限の「しあわせ」に向かって、できることをすべてやるしかない。
想像上の「世界」に対して努力しても満足を得られる時代ではなくなったのではないか。

遠いところの「しあわせ」にまで責任を持てない。
なにからなにまで、情報として仕入れることが可能になり(真偽はともかく)、善意すらもほんとうは必要じゃなかったなどと踏み躙られることが可視化されてしまう世界で、よくわからないものに対してリスクをとってまで働きかける価値はあるのか。


ドラマが訴えたかったのはそういうことなのか知らないが、私は自他の境界線について考える時期だったため、できることとできないことの棲み分けが大切なんだな、とあらためて感じたのだった。

ネタバレなしで感想を述べようとしたので、ちょっと訳わからんくなってしまい自分でもなに言ってんの?って感じだが、概ね書きたかったことを書けたと思う。

榮倉奈々の怒鳴りが最高でした。
上野樹里の映っている瞬間が癒しでした。



覗いてくれたあなた、ありがとう。

不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。

また私の12ハウスに遊びにきてくださいね。









この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?