気仙沼・陸前高田2022

そのうち加筆するがノルマ達成のために投稿せむと欲す

 「気仙沼と陸前高田に年に一回行こう」のマイルール実行のため初めて、冬かつ一人で訪れた。


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2021年9月に訪れているのだが何故かその記録が失われている。悲しい。

行程としては金曜日の
大宮19:09発のはやぶさ69号
仙台20:30発のやまびこ71号
一ノ関21:15発の大船渡線
気仙沼に22:35着
翌日は気仙沼16:15発の大船渡線に乗った。
およそ17時間ちょいの滞在だったがだいたい目的は果たせた。

今回の目玉(後付け)は陸前高田市立博物館である。
公式HP:https://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/soshiki/kanrika/hakubutsukan/index.html


2022年(今年)の11月5日にオープンしたらしい。

筆者は、2015年頃に『被災地の博物館に聞く』という書籍を読んだ。それ以来、ずっと気になってはいたものの、facebookをフォローするなどしかしていなかった。確か、仮置きされている場所が半ばオープンだった気もするがどこかに博物館資料があるという認識だけしていた。

気が付いたら、というかオープンしていた
花束があったので丹青社という展示の会社が関係しているらしい。なるほど丹青社か、と思った。筆者が就職活動で失敗してリタイアした会社である()(丹青社による陸前高田市立博物館の実績紹介があった。仕事が早いな……。https://www.tanseisha.co.jp/works/detail/rikuzentakata-city-museum

筆者が遅まきながら初めて被災地を訪れた際、陸前高田の海沿いはまだ土埃と造成工事の途中だった。あの土地の標高の記憶があるので、陸前高田の復興は、復旧というよりは過去の文化が土に埋まっていってしまう、生活は新たなものが作り出される、という感じを持っていた。
しかし、今回かさ上げされた土地の端に地域の漁具や、民芸品を展示した博物館ができた様を目の当たりにして、過去の陸前高田の文化がこれからの陸前高田の営みの標高に上がってきたように思えた。個人的には感慨深いものがあった。

展示の中でへぇーーーと思ったこと。
被災後、被災した資料が保存されていた場所に住民が「これ、博物館にあったものと同じ高田人形なのだけど…」などと、博物館にあった民芸品や漁具と同じものが家にあった場合に持ってきてくださるケースがあったそうだ。また、「これは博物館(以前は市立博物館と別にあった、「海と貝のミュージアム」)に展示されていた貝では?」と住民が発見し保存されていた、流出した資料もあったそうだ。筆者は都市に住んでいるからか正直なところ地元の博物館をあまり見たことがない。住民が被災前に博物館に行っていて、何があったか覚えているという点が、博物館が地域と密着しているさまを感じた。

建築に関して筆者自身はあまり造詣が深いわけではないが、陸前高田市立博物館に行ったことで、「内藤廣」氏に関して知識を深めた。
友人が「内藤さんの建築は気を衒った設計じゃないのに綺麗だから好き」と言っていたが、同意である。
旭川駅の四角錐のような柱の構造がとても好きなので、旭川駅の建築家と聞いてなるほど、と思った。なお銀座線の渋谷駅や、陸前高田の海側の高田松原津波復興祈念公園も同氏(設計事務所?)の設計とのことであった。東日本大震災津波伝承館の空への窓や、海へのプロムナードの静謐さ、筆者は好きでzoom背景に使うこともあった、設計者について気にしたことがなく若干申し訳なかった。

以下雑メモ

特に大船渡駅で実感したのだが、気仙沼駅から盛駅へ乗った、大船渡線BRTが、工事の関係でところどころ専用道を通らず、岩手県交通のバス停に停まった。せっかく……せっかく大船渡線BRTを乗りつぶしたというのに……また乗りたい。

気仙沼の先端へ自転車で向かったが、端のほうにコンクリートだけで構成されている空間があった。復興というか…再生というか…。

気仙沼駅レンタサイクルは12月下旬でも営業していた。雨天などは【自己責任】だそうで、雪の時も自分が責任を追うなら貸し出してもらえるんじゃないかと思った。着いた夜は雪がうっすらつもっており、朝7時も溶けておらずどうなることかと思ったが昼には溶けていた。

あさひ鮨のおじさんはけっこうよく話しかけてきた。

引き続き無理なく観光していきたい。

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