道徳科での主体的で対話的で深い学び①

新しい学習指導要領では、主体的で、対話的で、深い学びを通して子どもたちに力をつけさせていくことが明記されました。

今までは、3つのうちの深い学びの部分のみが示されていて、方法は現場に任せるという形をとっていましたが、今回は深い学びに至るまでの方法も大切だということが示されたわけです。

さて、この主体的で対話的で深い学びが道徳科ではどのように実現されていくのかが様々な研究会や附属小学校で研究されているわけです。

今日は、僕なりの考えを書いてみたいと思います。

まず、単純に主体的で対話的で深い学びを8つに分けてみたいと思います。

①主体的で対話的で深い学び

②主体的で対話的だけど、浅い学び

③主体的であるが対話的でなく深い学び

④主体的であるが対話的でなく浅い学び

⑤主体的でなく対話的で深い学び

⑥主体的でなく対話的で浅い学び

⑦主体的でなく対話的でないが深い学び

⑧主体的でなく対話的でなく浅い学び

一つ一つの状態について考えていくことで、主体的で対話的で深い学びとはどのようなものか考えていきたいと思います。

②主体的で対話的だけど、浅い学び

 いわゆる、活動あって学び無しという状態です。多くの授業ではこの状態になることが多いのではないでしょうか。もう一歩なんだけどな・・・という風に思う瞬間です。道徳科の授業でいえば、導入が上手くいき、中心発問に対しても子どもたちが良く考えている、でも考えが堂々巡りしてしまっていて中々先に進むことが出来ない。打開するための切り返しの発問が思い浮かばず時間が過ぎていくというような感じでしょうか。それが自覚できている時は善いのですが、後で映像で見てみると、そこまで深まっていないということもままあります。

③主体的であるが対話的でなく深い学び

 学ぶ姿勢は積極的であるが、隣同士の対話がなく、でも学びは深い。というと学校の授業の中では難しいのかなと思います。このように書いていて、私が想像したのは、講演会を聴いている状態です。講演会は聞きたくて聴きに行くわけですから、主体性はあり、その人の話から感化されるものがあれば、それは深い学びと言ってよいでしょう。とはいえ、隣の人と話したり、議論をしたりといったことはしませんね。新しい学習指導要領は、主体性対話的、深い学びの全てを重視しているので、この学び方はある意味否定されていると言えます。道徳の授業であれば、感動話を聞いて感想を書いて終わりという授業だと言えそうです。

今日はここまで。

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