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『リベラリズムの終わり』感想。およびぼくらが自覚するべきことについて

卒論が一向に進まない。

以前、青識亜論氏と石川優実氏の討論イベントがあったものの、予定が合わず参加できずにいた。討論会が終わって数日後、ご存じの通りフェミニズム・アンチフェミニズム両方が大荒れしたという結果に終わっていて、相反するイデオロギーを持つ両勢力が、建設的に議論する事は難しいと感じた。

けれども、こうしたオフラインイベントに参加して、他人の意見を聞くという機会を作ること自体は重要であると思うのだ。実際、上記のイベントにおいても、アンチ・フェミニズム界隈の参加者が、(参加時の)石川氏の勇姿を称賛していたのが印象に残っている。

ということで、何かしらのイベントがあれば積極的に参加しようと思っていたところ、白饅頭氏が上記のイベントの告知をしていたので、すぐさま参加予約をした。ほとんどクリスマスみたいな日程なのに、躊躇いなく応募ができるのが喜ばしいことかはわからないが。

そして萱野稔人氏の『リベラリズムの終わり その限界と未来』を読み終えたので、読了後に抱いた印象と感想、イベントに向けてどのようなことを考えておくべきかを記しておく。

本を読み終えた感想・印象とか

以降は、この本を読み終えた人を対象としているので注意してほしい。

感想:今日われわれが抱く”リベラル派”への反感を、巧く描き出している

「反知性主義」、「ポピュリスト」さらには、「差別主義者」等々。自称"リベラリスト"のレッテル張りに僕らはうんざりしていて、著者はリベラリズムの思想的な限界を―第1勝であれば同性婚と多重婚の例を用いて―指摘することで、それらに無頓着な彼らを一刀両断する。

第2章で論じられる現代リベラリズムについては、その論法―もしかしたらそれは、プロパガンダと呼ばれるかもしれないが―を、現代の日本・世界各国の社会経済から分析する。

印象:けれども"リベラル派"の反省となることはないのではないか

この本の要素として多くを占めるのが、上記のような"リベラル派"への痛烈な批判である。けれども、彼らがこの本を読むことによって、彼らが強くその思想について考慮しなおすことはないのではないだろうか。

というのも、この本における「こうしたリベラル派は~」といって語り方については、具体的な論者が挙げられているわけではないし、仮に挙げられていたとしても、彼彼女は多くのリベラリストの一人であって、その集団を代表しているわけではないと論じられるからである。


意見:その限界と矛盾・他領域からの援用を自覚することで、現実的なリベラリズムを提示できるではないか

著者は、リベラリズムのいくつかの要素を、リベラリズム外の領域から援用していると批判する。すなわち、リベラリズムは、その原理を突き詰めるなら、矛盾している/大きな選択を迫られる、というわけである。

ただ、僕が思うのは、そうしたリベラリズム原理の限界を自覚し、明確にほか領域から概念を援用し、それらを"マニフェスト"のように形成することには、かなりの価値があると思うのだ。さながらそれは、それ単体では自壊してしまうようなエンジンに、外部から補強をするかのように。

確かにリベラリズム原理には矛盾と限界が存在する。ただ、その矛盾が思想の価値全てを毀損することはないのである。

というのも、必ずしも論理的思考の行きついた先が、よいものになるとは限らないからである。反出生主義がそのいい例で、確かにその論理は筋道だっていて、それを批判することは極めて困難なのだが、ほとんどの人間はその論理に対して、直感的な、素朴な忌避感を抱くだろう。

疑問:さりとて、私たちはどのように社会を描いていくべきなのか(どのように議論していくべきか)

資本主義・共産主義・独裁主義、どのような社会形態が望ましいかはともかく。

僕が一番興味があるのは、「人々の既存の価値観と、社会思想をどうすり合わせるのか」ということである。

例えば、僕の周囲の人間の意見ではあるのだが、宇崎ちゃんポスター騒動の際に多く見られたのは、「女性をモノ化している」とかではなく、もっと素朴な"こんなところにオタクコンテンツを置くのはどうなの"みたいな素朴な忌避感であった。

また、アンチ・フェミニズム界隈の意見の中で僕が興味深かったのが、「男女の賃金を同じにするとして、上昇婚の現実とどう整合性をとるのか」ということだった。

同書の著者が第1章の終わりに指摘するように、僕らには"主義"の前に"(規範)意識"が存在する。僕たちは議論の前提として、まずそれを認識して、その意識が正しいのか、もしくは意識から根源的に変えていく必要があるのかから考えていくべきなのだ。

それが誠実さであるとぼくは思う。

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