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結果が他人によって決まるということ

私は「結果が他人によって決まること」が嫌いだ。
どれだけ努力を尽くしても、それが成功するかどうかは他人任せ。自分では変えられない。(尤も、努力の多寡は主観でしか決定されるものでなく、本当にそれが最善を尽くしたかどうかなど誰にも分かるものではないのだが)

この世の中の殆どの事柄がそうしたものではないだろうか。
「あの子が自分と付き合ってくれるかどうか」
「この会社が自分を採用してくれるかどうか」
「この作品が評価されるかどうか」

思えば私は、今までの人生で(といっても、まだ20代前半なのではあるが)
こうした事柄に対して成功を収めたことが殆ど無いように思える。

私が「結果が他人によって決まること」を嫌いな理由はいくつかある。

ただ1番は「認めたくない事実を認識させられる」からである。
私は、多くの人に好かれる性質ではない。高校の時は生徒会長などやってはいたが、別に他薦というわけではなく、ただ人員の関係で私がやるしかなかったのだ。私はこの事実を認識していたし、それを嘆くこともあまりしていなかった。というのも、人間関係なぞ数人の、気心の知れた友人がいれば良いし、そしてそうでない人間に対しても、別段コミュニケーションに問題があるわけでもないのだ。けれども今行っている就職活動によって、嫌が応にもその事実を再認識させられている。

だが最も苦痛だったのが「私が自分と他人の評価を切り離せる人間」でないことを痛感させられたことである。私の友人が、私がこの社会活動に苦戦している間、いとも簡単に成功しているのを知った。もっともこれは、私は彼が苦労している場面を見ていないからということもわかっているし、私が以前彼と喧嘩をした時に、彼に対して程度の低い人間だと思い、そしてその彼が自分よりも早く成功したことに対して黒い感情を抱いたことも自覚している。(といっても、今の彼は私と比べるべくもなく、善い人間であると思う。)

ただ私は「自分と他人の評価を切り離せる」人間でありたかった。そうであれば、生まれ持つ知性や外見の差から、その経験や人間味の高低といったものから解放されるからである。私にカリスマが無いことも、「学年の制限さえなければ”後輩”に会長を任せた」といった言葉も忘れられるはずだった。

しかし何よりも、自分がそうした評価の基準から一歩俯瞰することで、
世界の心理めいたものに近づき、優位性を持ちたかった
のだ。

悲しきかな、「結果が他人によって決まること」への恐怖は、多くのことへの挑戦心を削いでしまう。僕は親しい人間と交流さえできていれば良いと述べたのだが、しかし質問箱やマシュマロのような匿名の質問サービスを使ったことはない。なぜなら、もしそれを利用し始めて、何にも質問が来ないのであれば、「私は親しいと思っていた友人さえ居なかった」という事実を目の当たりにするからである。
そしてなお不幸なことに、「結果が他人によって決まること」の成功の多くは、人々の目に魅力的に写るのである。

当たり前といえば当たり前のことではある。質問箱に多くの質問が来ていれば、こんなにも皆が自分のことを知りたがっていたのだ、と感じることが出来る。アタックした子がOKしてくれたのならば天にも昇る思いだろうし、他のことに関しても「他人が評価し、OKした」という事実は何物にも代えがたい幸福であろう。「自身の打ち立てた目標に成功した」ことですら、それは他者の羨望という形で自らの承認欲求を刺激する。

たぶん、社会に出ればこうしたことを意識することすらなくなるほど、当たり前のように関わっていくのだろう。私が自らの年齢に焦りを抱いてTinderか何かをインストールした時に、このノートを書いたことを思い出すよう願っておく。

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