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憂鬱酒場放浪記

ことわっておくが、これは憂鬱な酒場の日記ではなく、憂鬱なわたしが酒場に行く日記である。

酒場自体が憂鬱であってはならない。
酒場で憂鬱になることはあっても、憂鬱な酒場というものが存在すると口に出して、みとめてしまってはいけない。

たとえ憂鬱な酒場が存在していたとしても、その仄暗さに気がつかないふりをするのがお酒に対する礼儀であると思っている。

思えば人生のほとんどが憂鬱の中にある。

やりたくもないのになぜか手を上げてしまい、そのままジャンケンを勝ち抜き、大袈裟なパニエを穿かされて不思議の国のアリスのアリス役をやった時からわたしの憂鬱は始まっていた。

今でもなぜあの時手を上げたのかはわからない。本番のパニエが苦しくて早く脱ぎたかったことしか記憶に残っていない。せりふもなにも発していなかったかもしれない。

わたしがなぜあの時手をあげてしまったのかと後悔に足らぬ程度の後悔を繰り返しているとき、どこか同じ空の下、地面の延長線上では心からアリスをやりたかった人のアリスをやりたかったという気持ちが幾度も繰り返されているのかもしれなくて、その想像はとても恐ろしく身がすくむ。

世の中には考えていたら生きていけないようなことがたくさんあって、たとえばトイレ、たとえば川の上を走る電車、たとえば飛行機、たとえば自分の口の動き、その一つ一つにたまにひっとらえられて、ああ!と大声を出して屈んでしまいたくなる時に、なんとかそれらの輪郭をぼかして明日も生きていってやるかと思わせてくれるのがわたしにとってのお酒。わたしにとっての飲酒。

現実の中にあるのだから非現実なんてことはありえないのだけど、非現実の幻想を見せてくれる、自分がちょっとおもしろく魅力的な人間になったように錯覚させてくれるし、何より世界とか人間とかがとても価値のあるもののように思える。

「酔っ払ってるから」で好きなひとに連絡してみることだってできる、次の日返信が来なくてありえないほど落ち込むことをこれも人生と捉える胆力も、一瞬だけ湧いて強くなったような気分でラーメンを啜ることだってできる。
酔っているから見える幻であったとしても、幻も同じ時間の中に存在していて、ブルトンが夢を蔑ろにするなと言うように幻も蔑ろにされなくたっていいはずだ。
そんな言い訳をいくつも携えてわたしは今日も夜の街を歩く。

あの日の赤星とほねせんべい

おそろしいほどの孤独が迫ってくるとき、言いようのない安心感にも包まれる。
圧倒的な孤独はあらゆる神経を指の先から頭のてっぺんまで、じわり染みるように麻痺させていく。人は死ぬ時に大量のドーパミンを出すから気持ちよく死ぬことができるのだみたいな説を聞いたことがあるけれど、それって死にゆく人にどうですか?気持ちいいですか?とか、聞いたのかな。
「気持ちいいです!」って答えながら死んでいったのなら、この人生にももしかしたら意味があるかもと思う。生きていなければ死ぬことはできないから。
でも、まあ、それが間違いだとしても気持ちのいいものだと信じている方がこの先もきっと楽しい、とまでは言えなくとも怖さが半減する、かもしれない。
なにもわからないことだらけだから信じたいものだけ信じて、真実から目を背けて心地よく生きたっていいんじゃないかと思うようになってきた。
思考が滞るのを感じながら幸せでも不幸せとも言い難い、かたちのわからない感情を赤星で流し込んで「はー」なんてわざとらしく一息、ついてみる。
この店は数年前、わたしがホステスとして働いていた時、出勤前によく立ち寄っていた立ち飲み屋だ。

何度通っても常連ヅラさせてくれないところが気に入って一週間に一回ほど、今日は飲まないと頑張れないというようなときに利用していた。
飴色のカウンターを手で撫でて、そういえばわたしはいつ赤星を好きになったんだっけとふと思い、そうだ確か、大学時代だ、と結構すぐに解が出る。

大学時代、お金もないくせに仲間もみんな美味しいお店じゃないと、のこだわりを捨てられなかった。
いまだに「あれってどうやりくりしてたんだろうね」と声が上がるくらいには安いチェーン店を頑なに利用せず、ずっと教授が教えてくれた刺身の美味しい居酒屋を利用していた。今思えばあの人数を予約せずに入れてくれたことも、バラバラの注文も、なんの礼儀もなっていない私たちを良くもあんなふうに温かく迎えてくれたものだ、と思う。

各々が好きなお酒を飲み、好きなものを食べるので瓶ビールも一人一本、机の上に4本ほど置かれていたこともあった。
わたしはその頃から食べることよりもお酒が好きで、みんながラーメンなんかを食べている中、それを肴にビールを煽ったりしていた。
あの頃
さほど昔のことではないはずなのに、もう遥か遠い記憶みたいだ。
今よりもずっと子供だった。子供であることをとがめずにいてくれた仲間、教授、バイト先の大人たち。
こうやって一人で飲むのが好きになったのも、教授が飲み方を教えてくれたからかもしれない。わからない。でも結果の解が一つだけなんてことは実はあまりなくて、教授とかあの店とか、大学時代の行きつけだった小料理屋の老夫婦とか、そこで出会って今は名前も覚えていない保育士とか、色々な人たちのかけらが今のわたしを構成していると感じることがある。
これは感謝とかではなくて不思議だねって話。
折り紙を千切ってモザイクアートを作るみたいに、幼稚園のわたしのかけらも今のわたしの中に存在している。

ここの赤星は手が凍るほどに冷えていて美味しい。
冷たいビールが胃に滑り落ちていくのを感じて空腹を自覚する。
鯛のお刺身、栃尾揚げ、好みの食べ物に目を奪われつつも少し寒くなってきたしなにかあたたかいものでも、と二杯目のビールを注ぎながら壁のメニューに目をやる。
ほねせんべい 100円
本日のおすすめに掲げられた筆描きの文字に心を奪われ、目があった店員さんに
「ほねせんべいを一つ」
ほとんど反射で注文していた。

「あい、ほねせんべい」
出てきたほねせんべいは、これぞほねせんべい
というような、
ほねせんべいと聞いたらみんなこれを思い浮かべるだろう、みたいな、
とにかくほねせんべいの大正解だった。
ビールで喉を潤し、ひっそりと箸でつかむ。
揚げたて特有の湯気に油の混ざった匂いが鼻に届き、熱を持ったままわたしの口の中へと入った。
喉に刺さらないよう慎重に噛み砕く。歯と骨がぶつかって小気味いい音がする。
骨を食べているのだと指先まで意識しながら口に入れる、ビールを飲む、たまに身がのこっていてうれしい、温かい口内をビールで冷やす。
夢中になってリズムを楽しんでいたらあっという間にほねせんべいは姿を消していた。

一匹のアジの骨がわたしの身体の中に埋葬された。

今もなお、わたしの体内で


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