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140/365 【徒然と】 根底にあるのは 「離れていても」なのか「離れているから」なのか

「離れていても」が増えている。

確かにその通り。各種オンライン会議アプリの急伸により、仕事はもちろんのこと、飲み会もお茶会も「離れていても」可能になった。

世界のどこにいる人とも繋がれる。

それはそれでいい。

でも、物理的に「会う」ことの全てが無くなるわけではない。

zoom飲み会も、始めは物珍しさで面白かった。新しいおもちゃを手に入れた時のようにワクワクした。

でも物珍しさフェーズが過ぎたら、zoom飲み会後に残るのはふわふわとした寂しさだった。だって、やっぱり会えていない。

顔を見られることは嬉しいし安心もする。だが、遠くに住む友人と久しぶりに食事に出かけた時の「また会えて嬉しい」とは、やっぱり違う。

「会いたいけど、離れているから会えない」がまずは根底にあって、その土台の上に仮初めの「離れていても」があるだけなのだ。

土台を無視して「離れていても」だけを切り取ってしまうと、何かを取り違えてしまう気がしている。

プライベートに限った話ではない。

仕事でもイベントでも、その他のどんな場面でも、遠い場所にいるから会えなかった人に「やっと会えた」は、確実に存在し続ける。オンラインで出会える裾野が広がれば、より一層「リアルに会えた」瞬間のきらめきは純度を増していくだろう。

「会わなくても実は大丈夫だった」会議やら業務やらは、今後も「離れていても」マターであり続けるだろうけれど、それ以外の「離れているから」に立脚している物事や心は、「いつか」に進む。眼差しが未来に向かう。

それが、コロナ後の「やっと」に結びつく。

そういった「やっと会えた」な人や場所やサービスとの結びつきは、今後も続く骨太なご縁になるのだと思う。

今までのお付き合いが「離れていても」属性の事柄だったのか、「離れているから」に立脚しているのかが、炙り出されているのだ。

前にも書いたけれど、今取っている距離というのは、「ソーシャル(社会的)」な距離ではなく、あくまでも「フィジカル」(物理的)な距離なだけなのだから。




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