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Kanye Westについて(DONDAリリース前)

カニエ・ウェストは現代において間違いなくBiggestなアーティストだ。(Greatestかどうかはまだ議論の余地が多くある。)
単純に、アフリカ系アメリカ人の歴史上、おそらく生前の黒人アーティストの歴史上、最も金を稼いだカニエ・ウェストよりも金を稼いでいるアーティストは現代に存在しないし、カニエ・ウェストよりも広い影響力のあるアーティストもおそらくこの世に存在しないだろう。
カニエ・ウェストは、決してイージーのデザイナーとして、特にイージーブーストというコンスピキュアスでファッショナブルなファッションのうちに消費されていい人間ではない。

まず、カニエはラッパーである。プロデューサーでもある。
Hiphopという文化は、黒人の、低所得層の、異性愛者によって形成され、(文化というものは常に狭量である。)押韻とリズムという縛りの中で、上手い言い回しを常に模索し、自らと自らの誇りを尊大に表現し、(自らの弱さを明確に表現する仕方が主流になるにはKid cudiの登場を待たなければならない。)時に啓蒙し、時に内省し、ディスによって弁証的に高いレベルを目指し、最終的にどちらが多くの富と名誉を獲得したかを競う物質主義的なスポーツである。
ここにおいて、カニエはトップにいる。これは主観ではなく、カニエより金持ちのラッパーがいないからだ。だからトップだ。Hiphopとはそういうスポーツである。

なお、カニエは中産階級であるが故に、アメリカという広大なHoodを持つ。彼はアメリカ全土を語る。このことは彼のナルシズムとゴットコンプレックスにも由来する。
そして、カニエは躁鬱である。これが故に、ナルシストでありながらデカダン的である。いや、往々にしてデカダンとナルシズムは同居する。自らの尊大さに世界が追いつけていないのである。

カニエは熱心なキリシタンである。同時に半端ものである。福音派でありながら奴隷制にも同性愛差別にも反対し、ミソジニー的な思想も"比較的"見られない。隣人愛を知らない。尊大であり矮小である。彼の過剰な性欲は、アメリカの喉奥までペニスを挿入しなければならないが、当たり構わず社会を陵辱しなければならないが、しない。最高の人生でないなら迷わず死ぬと宣言し、生きているうちはみな奴隷だ、生きて悪者か、死んでヒーローかと呟きながら、死なない。

脱線するが、これはカニエに限った話ではない。我々は、自殺を讃えながら自殺せず、無為を讃えながら行為し、神を憎みながら愛するのである。これが論理の限界であり、現実の臨界点である。これこそが、ドストエフスキーが地下室の手記で表した、どうにもならない外力に似ながら、最も本質的な内力の働きである。我々に、徹底はありえない。中途半端であることが人間の、生命の本質だ。
無意味さを声高に主張することは、無意味さに意味を持たせることになりうる。全てが幻影であることを認めることは、幻影を実在させる。これは幻影の権威への服従であり、隷属である。"全ての観念を失格させる観念は、それ自体が拮抗である。"
我々は、行為の果実を放棄しなければならない。関心にも無関心にも関心を持たず、行為せずに行為する仕方を、学ばずに学ばなければならない、と思わずに思わなければならない。つまり、全てを、埋葬せずに、埋葬されなければならない。そしてこの達成は不可能だ。これを達成した(とされる)、人智を超えた極めて不可解な存在、自我と苦しみの実在を認めない者、自我と苦しみをすっかり抱擁してしまう者、全てに関心を持たない者、全てを愛する者、つまりブッタを、イエスを、我々は信仰せずにはいられないのである。

カニエは現代における現実的な、人間的なジーザスだ。私は上記の観念を孕んだブッタやイエスが存在したことをやはり信じられない。
カニエが生きているうちはみな奴隷だと発言したのは、生というものに内在する自由が決して満ちることがないことにある。カニエほど尊大な芸術家は、飽くなき自由を欲する。その究極にあるのが、
"狂気のような自由、死産児のような自由"だ。
つまり、我々は、救済の予感を完璧に奪われてから、生まれる。しかし、
"自殺は力づくのニルヴァーナ。"
自殺願望をリズムに乗せて撒き散らすカニエは我々に告げる。「お前は全ての力を手放す力を持っている。」

カニエは関心のあるもの以外は完璧に無関心であり、愛するものだけを愛する。また、音の尊大さ、リリックの啓示性も相まって、リスナーに信仰され、言動の不安定さと危うさによって多くのヘイターも持つ。ナルシズムの自己完結性が外に放射された時、我々の中で蠢く未完了なものを完了させ、未確定なものを確定させる力になる。
なるほどまさしくジーザスである。

そんなカニエ・ウェストの最新アルバム「DONDA」が、おそらく今年の8月中にリリースされる。
美しさは少なくとも道徳からは離れてある。キャンセルカルチャーによってカニエを忌避するのはあまりに勿体ない。
私がカニエやケンドリックのアルバムのリリースに際して、単純な期待よりも大きいのは、古くはボブディランの「Self Portrait」やピンクフロイドの「The Final Cut」、最近ではチャンスザラッパーの「Big Day」やXの「Bad Vibes Forever」と同じ轍を踏むことへの不安である。
しかし、それぞれ「My Beautiful Dark Twisted Fantasy」と「To Pimp a Butterfly」という絶対的な最高傑作を抱えながら、今もなお素晴らしいアルバムを作り続けているため、それは杞憂で終わるはずだ。そう信じている。

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