【台本公開】FYFQ的映画評論『プーと大人になった僕』

今回観た映画は、2018年に公開されたファンタジー映画、『プーと大人になった僕』!
監督マーク・フォスター、主演はユアン・マクレガー。
 
これは実写映画でして、物語は第二次世界大戦前のイギリスから始まります。主人公の少年・クリストファー・ロビンは、プーさんやその仲間たちと楽しく過ごしていたのですが、
成長するにつれて、寄宿学校に入れられたり、戦争に出兵したり、戦後も仕事が忙しくなったり、そのせいで家族との関係がこじれたりして、そんな忙殺された日々のなかで、プーさん達と過ごしていた少年時代をいつしか忘れていってしまうんですね。
でもひょんなことからプーさんと再会して、いろんなハチャメチャが起きて、忘れていた少年の頃の気持ちや家族との絆、そして自分の生き方を見直していく。
て感じの話です。

映画全体的に取り扱うテーマとしては、大人と子供の対比、現実とファンタジーの対比というところですね。
対比という表現が正しいかちょっと自信がないのですが、
つまり大人になった自分が、子供の頃の感覚と向き合って、大切な何かを取り戻す。そういう物語でして、
僕たちって誰もが昔は子供だったわけですから、共感性が高くて泣けるんですよね、こういう話って。

他の作品でいうと、例えばクレヨンしんちゃんのオトナ帝国とか、トイストーリー3とか、あと個人的にはトム・クルーズ主演のレインマンとかももしかしたらそれに近いんじゃないかと思ったりしましたけど。要は名作が生まれやすい題材だと思うんです。
その名作の匂いが、名作臭が、『プーと大人になった僕』というタイトルからプンプンに漂ってきてるので、もう観る前から名作確定ですよ。
 
 
ただ、あえて先に、良くも悪くもという意味でちょっと気になったところがあったのでお話ししておきたいのですが、プーさんのテクスチャーがぬいぐるみ風なんですよね。
リアルな生き物風でもなければアニメ風でもないというか、現実のその辺のぬいぐるみが動いてる、みたいな感じになってるんですよ。

いや全然いいんですけどね。
とはいえこの感じだと、『名探偵ピカチュウ』のときみたいな、ぬいぐるみに命を吹き込んだのか?みたいな、ちょっと解釈に困るテクスチャーではあったし、
ぬいぐるみの手で直接はちみつをすくって食べるシーンは、ちょっと衛生的にどうなのみたいなノイズが生まれやすいんじゃないかと、思ったのはたぶん僕だけじゃないと思うんですよね。
まあそれが本来の原作のプーさんの見どころでもありますけどね。

一方で、これに関してはほかにどうしようもなかったんだろうな、とも思うので、そこは妥協点というか実写映画化におけるいま現在での最適解として全然受け入れやすいレベルではありますし、
逆に言えば、ぬいぐるみという存在の現実味というか、身近なもの感が、我々観客のこの作品への没入度を高める効果があるのは確かで、
それはさっきも言ったような、我々の子供時代/子供体験と、ぬいぐるみという存在が、やっぱり親和性が高いからだと思うんですね。

あと特典映像を観た感じ、監督が「英国紳士とぬいぐるみの組み合わせ」という絵が撮りたかった、という、サブクエストみたいな雰囲気も感じたので、その狙いもあったのだと思います。
 
 
で、その話とは別にもうひとつ興味深いと思ったのは、キャスティングなんですけど、主演のユアン・マクレガーさん、なんか観たことあるな〜と思ったら、『ブラックホークダウン』に出ていた人なんですね。有名な、スーパーヘビーな戦争映画で、結構かっこいいポジションの役を演じてたと思うんです(ただ、この映画は9.11が起きた時代のアメリカの戦争映画なので、それをかっこいいと言ってしまう危うさはあるけども)。
まあ要するに僕の中では戦争映画の人というイメージがあるんです。
まあそれ以上に有名なところで言うと、スターウォーズのオビワンの役ですね。こっちのほうが圧倒的に知られてると思いますが、恥ずかしながら僕はスターウォーズをあまり通ってないのでね。

ついでに、今作『プーと大人になった僕』の主人公の奥さん役、ヘイリー・アトウェルさん、この人もなんか観たことあるな〜と思って調べたら、MCUのキャプテンアメリカの一作目に出ていたヒロインの人なんですね。
キャプテンアメリカの盾に「実験だ」みたいなノリで銃をぶっ放してた人ですね。男勝りな女軍人みたいな。
で、一作目のキャプテンアメリカもほぼ戦争映画じゃないですか。
だからこれは完全に僕のイメージですけど、戦争映画出身の2人が、プーさんを題材にした映画に出てるだと!?という、なかなか面白い画になってたんです。

これは別にあべこべだって言いたいわけじゃなくて、「プーさんを題材にした映画」という意味では、むしろものすごく綺麗に整合性の取れたキャスティングかもな〜と思ったんです。
 

どういうことかと言うと、ポイントとしては、今回の物語は、時代設定が第二次世界大戦前後、メインとなるのは戦後間もない頃ですけど、そのあたりの時代にストーリーの軸を置いてるというところなんですね。

正直、プーさんを扱うファンタジー映画の時代設定なんて、別に現代だろうと近代だろうと出来ると思うんですけど、それをあえて、大戦前後に設定したということ。そこについて考えていくと、
その理由は2つあると僕は思ってて、一つは、プーさんの原作が生まれたのがそのあたりの時代なのでそこに合わせているのであろうという点。すごいストレートな理由ですけどね。

特に言及はされてなかったんですけど、この映画の主人公の年齢も多分そこに合わせていて、具体的にはプーさんの原作が発表されたのは1926年なんですが、
この映画の冒頭、主人公の子供時代の描写から始まるんですけど、そのころの主人公はおそらく10歳いかないくらいだと思うので、あの冒頭のシーンがプーさんの誕生に合わせた1926年であると仮定すると、その後の時系列もいろいろ合点がいくわけです。20代前半で素敵な女性と出会い、後半で戦争に行き、30代で家族とともに新しい生活を始めると。
なのでそこに合わせたのだろう、というのがまず1点。


そして2点目。僕はここが非常に重要だと思ってますけど、
第二次世界大戦あたりのあの時代って、いろんな技術が急発展して、世界規模での現代化というか、
人々のあらゆるリテラシーが急につき始めた時代なんです。
今までは、ある現象に対して、これは神様の仕業だ~とか、奇跡だ~とか、悪魔の力だ~とか言われてたものが、あらゆる技術の発展によって、あれ?なんか…人の手でできるぞ??ん?みたいな視点がつき始めた頃だと思うんです。

つまり、これまでの世界観が技術の発展によって崩れてきたのは体感としてわかるんだけど、でも現代ほど科学への信頼がまだ強くはない。そういう、人々が揺れてる時代なんですね。
 
 
それはメルヘンとかファンタジーに対してもよく見られたことで。
例えば、コティングリー妖精事件って知ってますか?妖精写真事件(騒動)と呼ばれたりしますけども。
これは戦前の話なんですが、写真技術が発展して人々の手にカメラが出回ってきた頃、イギリスのある幼い姉妹が、「妖精の写真が撮れた」と言ってそれを発表したんです。
すると、その写真が本物か偽物かという議論がイギリス全土どころか世界中で巻き起こってですね。
いろんな識者や著名人が、これは本物だ~これは偽物だ~というコメントをしたりしてすごい盛り上がったんですけど、その数10年後に、これは偽物でしたと本人たちが自白する。という騒動があったんです。

このエピソードが何を示しているかというと、この頃は現実とファンタジーの関係、現実に映し出されたファンタジーというものを、人々がまだうまく処理できていなかった、リテラシーが発展途上だった証左であると思うんですね。
妖精の写真が本物か偽物かを、本人が自白するまで結論を出せなかった。そういう、絶妙なタイミングでもあったわけです。

そんな時代だからこそプーさんの映画を作るには相応しいんです。
つまり、人々がファンタジーと科学の間で大きく揺れている、おそらく人類史上唯一の時代であったこと。
それがプーさんと人間、大人と子供、現実とファンタジー、そういった対比を描くこの作品に最高にマッチしているんですね。

キャスティングの話に戻りますと、血生臭い戦争映画慣れしているあの二人が、この作品に起用されたというのも、大戦前後のあの時代、戦争と深く結びついた日常を演じるという意味では二人とも経験があるのでね、そういう意味でも絶好の人選だったんだろうし、

あと、ユアン・マクレガーさんはスコットランド出身で、ヘイリー・アトウェルさんはイギリス出身ということで、作中の台詞、言葉づかいが、割と目立つイギリス英語だったりしたので、イギリスネイティブをキャスティングしたかったんだろうなとも感じました。
 
 
で、話の内容としては、さっきも言ったように様々な対比がテーマに置かれていて、全部ひっくるめると要は「大人と子供の対比」であると、僕は思ったのですが。
こういう話って、「大人になるってどういうことなんだろう」という、思春期を過ぎたら二度と考えないようなテーマを掘り起こさせてくれるわけです。

大人になるということは、例えば体が大きくなるとか、いろんな経験を積むとか、知識がついて視野が広くなるとか、それを根拠に子供や若者を導くとか、そういうぼんやりとした現象だと思うのですが。
要するに、とにかくいろんな経験や知識や何かしらを取り込んで継ぎ足していく足し算のプロセスであると言える一面もありますけど、も!
同時に、子供の頃の感覚、しかもどうやらめちゃくちゃ大事なものっぽい感覚を置いて行ってしまうという、忘却のプロセス、引き算のプロセスでもあるわけなんですよね。
 
 
例えば今作で言うと、風船の存在がその象徴のひとつだったと思うんですけど。
大人になった主人公クリストファー・ロビンはプーさんが欲しがった赤い風船を「いつでも買えるものだ」とそっけなく扱うのですが、
プーさんは「ぼくは風船を持っていると幸せになれる」と言ったりとか、どれだけ時間が経っても「これはクリストファー・ロビンから貰った風船だ」と言って大事に持ち歩いたりするんですね。

これって超子供あるあるじゃないですか!
この描写を見たとき、僕もクリストファー・ロビンのように少しはっとさせられたんですよ。
あ、忘れてたなこれ。俺も子供のときはそうだったな。と思って。

ざっくりした分け方をすると、大人の合理的判断では風船とか別にいらないんだけど、子供の感性的判断ではいまこの瞬間は風船が何よりも大事である。という両者の主張がぶつかっているわけですね。
これは多分、どっちが良いか悪いかの話ではなくて、というか普通にどっちも必要な感覚で、
ただ、大人という生き物は、どうやら子供の持つ感性的判断のパラメーターがあまりにも低くなっているようなんです。子供時代も経験してるくせにね。


僕は今から不要不急問答にもすごく通ずる、というか何度もこの話してるやんけという話をしますけど。
今作でいうと、風船を大事できる感性があるということは、合理性の枠には収まらないようなもの、例えば家族とか愛とか人生とかを大事できるというわけで、クリストファー・ロビンはプーさんと再会することでその感性を取り戻して、家族や愛や人生を取り戻していくわけです。

風船を大事にできる感性。
つまり「豊かさ」ですよ!!
いいですか皆さん!この映画の最大のテーマ、最大のキーワードは、「豊かさ」なんです!!!
この不要不急問答で8億回は使ったであろう大事なワードですよ。
 
 
この「豊かさ」を念頭に置いて物語を振り返ります。
まずクリストファー・ロビンは幼少の頃、プーさんやその仲間たちと過ごしています。そこは現実的な合理性なんかほとんどないような、自由な世界なわけです。
ですが成長するにつれて寄宿学校に入れられたり、都会に出たり、戦争に出兵したり、帰ってきてからも仕事に追われたりして、彼は厳しい規律と教養と社会性を身に着けることで、プーさんと過ごしていたあの豊かさを、記憶の奥にしまっていくんです。

ちょっと構造主義的な言い方をすると、戦後間もない、経済的な勢いのあるロンドンという空間、まあロンドンに限ったことじゃないですけど、そんな勢いのある場所が生活拠点なわけですから、ある意味、無駄なものは捨てて合理性を身に着けていないと生きていけないような、そっぽ向いてるとすぐに置いていかれるような社会に彼はいるわけです。
少年時代でプーさんたちと得た豊かさは、大人になるという忘却のプロセスのなかにしっかりと組み込まれてしまって、構造的には不要なものだと判断されて、彼はそんな豊かさを失います。

ですがひょんなことからプーさんと再会し、風船のくだりや彼との会話や旅によって、忘却された豊かな感性を取り戻していきます。具体的には子供の遊びみたいなことをしていくんです。
そうして徐々に子供の頃の感覚を取り戻していきます。

取り戻したことでどうなるか。今まで「合理的じゃないから、大人になると意味ないから」つって切り捨ててきたものに目を向けるようになります。
例えば家の中で家族とまったり過ごす時間とか、子供と向き合うとか、それによって家族の絆を取り戻すとか。仕事においてもコストカットではなくコストを生かして利益を生むほうに考えを改めるとか。
つまり豊かな感性を得ることで、今までの合理性の緊張がほぐれて、余裕が生まれて、結果的にプライベートも仕事もうまくいく、という話になっているんですね。


これはどう考えても、我々も学ぶべきメンタリティだと思うんです。
大人になるということは、厳しい社会で生き残っていくことだから、無駄を省いて、合理的にスムーズに生きていこうとすることである…だけではないぞと!
きみたちは何か大切なものを忘れていませんかと!!あなたの人生には重要な何かが欠落していませんかと!!
そう、合理ではなく感性、すなわち「豊かさ」ですよと!!
そんなメッセージが込められているんです。

いい映画ですね!
大事な感性が磨かれる素敵な作品だと思います。観たことない方はぜひ観てみてください。

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