【台本公開】FYFQ的映画評論『グラン・トリノ』

今回扱う映画は、2008年公開、監督・主演をクリント・イーストウッドが務めたあの名作!
『グラントリノ』!

クリント・イーストウッドですよ…!
この映画を撮ってる時点で80歳近い年齢です。というか今はもう90何歳かくらいですけど、最近も新しい映画を出してて、なんかもう超人ですよね。
ダーティハリーかっこいいよね!の時代からもう50年くらい経ってるわけですからね。
そんな超人が主演監督を務めたのがこの『グラントリノ』という作品です。

僕はこれを観るのは2回目なんですけど、最初に観たのはたぶん10年くらい前で、
その時は、正直、よくわからなかったんです。
なんとなく、真面目で多面的で勉強になる映画だ、ということだけはわかったんですけど、具体的に何が描かれていたのかよくわからなったんですね。
で、この機会に、嘉手苅キャンディさんの推薦をいただいて改めて観てみたわけなんですけど。


あらすじでいうと、主人公はクリントイーストウッド演じるウォルトという老人で、妻に先立たれてしまって、子供たちはいるものの全然上手く付き合えてなくて、一軒家で独居してるんです。
その家の隣に、アジア系のモン族と呼ばれる民族、要は彼から見ると外国人一家が暮らし始めるんですけど、
ウォルトは白人至上主義というか保守的な性格で、人種差別とか平気でやるようなタイプなので、モン族の彼らを毛嫌いするんですね。
でも彼らと徐々に交流をするようになって、今まで見向きもしなかった新しい繋がりや豊かさを得ていくと。
まあもっと言うべきことはたくさんあるんだけど、ざっくり言うとこんな感じのあらすじです。


これはですね、結局、どういう映画かを語るのが非常に難しくて、多様性溢れる作風というか、ピックアップすべきポイントが多いというか、
一言で「こういう映画です!」と言い切るのは僕には難しいなと感じました。もちろんいい意味で。

逆に言えば、この密度でよくこんな綺麗にバランスできたな〜とも思ったし、
もっと言えば、一人の人間とか一つの人生というものがそもそも多面的なので、そういう写実性は高い映画だなとも感じました。

だから見る人から見れば、例えばこれは一人の人間のライフストーリーだと思うだろうし、あるいはマイノリティな人種のモン族に焦点を当てた映画だと思うだろうし、もしかしたら、右翼が左翼になる映画だと捉える人もいるかもしれない。なんだよ結局左翼の映画かよ!みたいなね。まあもし本当にそういう解釈があるとすれば僕はそれは違うんじゃないかと思うんですけどね。
繰り返すようですが、要するに本当に密度の高い映画なんです。


で、さすがイーストウッド作品というか、セリフにはないんだけど細かくもわかりやすい演出が最初から最後まで非常に多いんです。
多分ですけど、字幕を切って、別言語の音声で、セリフがまったくわからない中でこの映画を観ても、ほぼ完璧に内容が伝わるんじゃないかと思うくらいわかりやすい作りが多いんです。僕はチャレンジしてないんですけど。

例えば主人公のウォルトは自分の息子や孫とまったく上手くいってないんですけど、それは映画冒頭の、妻の葬式のシーンでわかります。
非礼な振る舞いをする孫たちにむけるウォルトの目つきとか、教会のあの長椅子に座るときの、息子達との物理的な距離感とかすごい絶妙でわかりやすいですし、
あと彼が保守的な人間であることは、家の状態とか飾りとかからもわかるし、彼が国産車のグラントリノを一生懸命手入れして、日本車を乗る息子たちに冷めた目線を送るとことかからも充分に理解できる。

つまりセリフにあまり頼らない作風というか、漫画じゃなくて絵画というか、そういう楽しさがあるんですね。
かといって説明不足でもなんでもなくて、その密度はむしろすごく高くて、それをちゃんと、映画という時間的な縛りのなかでバランスよく表現できているのが、すごいなと思いました。


あと、個人的にいいな〜と感じたのは、モン族の人たちですね。エキストラもそうなんですけど実際のモン族の人たちを採用したらしくて。
のちにウォルトの良き友人となるモン族のタオという少年、演じたのはビー・バンという人なんですけど、この少年の風貌が本当に絶妙でして。
いい感じに芋くさいというか、着てる服や顔つきや髪型が、田舎の目立たない少年感。
これが本当にすごい。イーストウッドもそこが気に入って採用したそうです。

あと、モン族のおばさん達が、とにかくウォルトに食事を分け与えるとことか。
別に食べ物に困ってるわけでもないウォルトにたくさん与えようとする感じが、もうほんと沖縄のおばさんにもよく見られる光景で。
あ、おばさんのこういう素敵なお節介って、世界共通なんだ。と思わされました。


そういう、ピックアップしたいポイントはまだまだたくさんあるんですけど、僕が結果的に一番関心が高かったのは、ウォルトという人物像です。

彼のライフヒストリーをざっくり言うと、若い頃、1950年代に、朝鮮戦争に出兵しています。そこで現地の人たちを、そういう状況だからとはいえ何人も殺しているわけで、その己の罪に現在まで苛まれ続けているわけです。
彼が隣人のモン族を毛嫌いしていたのは、保守的な性格ももちろんあるんですけど、同じアジア系の顔つきの彼らが、その苦しい記憶を彷彿とさせるからでもあるんですね。
逆に言えば、その記憶に触れたくないがために、自然と保守的な性格になった一面もあります。
つまり、記憶(過去)からの逃避先としての保守性と言えます。

で、戦争から帰ってきて、彼はフォードという国産車のメーカーの組立工として50年務め、引退して今に至ると。
帰還してからの就職先が国産車メーカーであるということ、つまりアメリカという世界から出る必要のない場所に身を置いたと解釈できるわけで、それも、前述した戦争の記憶からの逃避先として、シェルターとしての保守性がそうさせたのかもしれないですね。

そんな彼の家の隣に、よりによってアジア系の人種、モン族が引っ越してきたわけですから、彼にとってはオイオイオイやめてくれよ!!と、なるわけです。
そりゃそうですよね。せっかく手に入れた安息の地に、自分の罪深い記憶を呼び覚ます存在がやってくるわけですから。

なので、序盤のウォルトの行動・言葉も、もうほんとぶっきらぼうなんてもんじゃないくらい、すっごい憎たらしいやつで、
え、この人が主人公でいいの?て思うくらい、ちょっと強烈な、他者に対する嫌悪感が強い人なんです。


で、そういう背景を無視して言うなら、彼のそのスタイルというか人物像自体は、おそらく、現代のアメリカあるあるなんじゃないかと思うんです。

つまり、あえて口の悪い言い方をしますけど、未だにマジなテンションで人種差別をする白人の高齢男性という存在。
今となっては"アメリカでさえ"同調者が少なくなってきているタイプだと思うんですね。
でも「あー、こういうおじいちゃんいるよね」みたいな存在。

僕の記憶に新しい表現としては、最初に評論した映画『ドントルックアップ』で、あくまでコメディシーンですけど、白人の高齢男性が全世界に向けてナチュラルに人種差別発言をして、周りの人、彼の関係者みたいな人が、苦笑いしながら「まあまあ彼はそういう年代の人だから」みたいなセリフを言うシーンがあるんです。
そこが個人的に印象深かったんですね。

というのも、昔からよく言われる表現で、コメディに関する日本とアメリカの対比みたいな話でですね、
「日本ではよく暴力をコメディにするけど人種差別は禁忌とされいて、反対にアメリカでは人種差別をコメディにするけど暴力は禁忌とされる」
みたいな言われをよく耳にしたことがあるんですけど。

つまりアメリカでは人種差別はもはやお笑いのネタという使い方もある、というか揶揄するという向き合い方もしていたりするんだけど、
一方で、マジで根っからの差別主義者ももちろんいて、その傾向として、人種差別をまだコメディに昇華できていなかった昔の価値観の人たちを、白人高齢者という存在に見出しがちというか、そういうあるあるなんだな、と感じたんです。
まあ別にアメリカに限った話じゃないと思いますけどね。

つまりウォルトの存在が、ヒールな役でもなければ、ただの性格の悪いジジイでもなんでなくて、
普通に、あるあるな存在なのかもな、と僕は感じたわけで。
で、そこから、ウォルトが己の性格というか自分自身とようやく向き合うことで、新しい豊かさや新しい繋がりを得ていく、というところがこの物語の素敵なところなんですね。

これは多分、実際にはほんっっとに難しいと思うんです。
自分が今まで信じてきた生き方とか、貫いてきたスタンスを、高齢になった今になって改めるとか。
嫌いな人間を好きになるとか、できます?普通。
すごくないですか??

でもそういう、柔軟さというか、自分自身と向き合って更生していくみたいな人生って、
僕はですけど、是非目指したいところなんです。
だってその方が絶対に豊かだし幸せだろうなと思うんですね。

だからこの映画の終わり方は、人によっては捉え方が違ってくるかもしれませんが、
僕はウォルトは結果的に幸せを得ていたと思うんです。幸せな中でのあのエンディングだったんじゃないかと思うんですね。

じゃあ幸せってなんだろう。幸せを得るってなんだろう。そういった人生の指針みたいなものが見えてくる映画だと思います。
気になる方はぜひ見てみてください!

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