【小説】特別な仕事

 「お疲れ様でした」
退社の準備を整えたらしい若手社員の堂島が挨拶しに佐藤の元へやってきた。期待の新人と噂されているだけあって、ちゃっかりと顔馴染みになっておこうという算段だろう。なかなか抜け目ない男である。そんなことを思いながら軽く返事をすると、すかさずキラキラと目を輝かせて言葉を連ね返してきた。
「入社した時から佐藤さんのご活躍を伺っていました。もう憧れの存在で、お会いできて光栄です。これからご指導よろしくお願いいたします」
「ありがとう、君の名前もよく聞くよ。すっかり即戦力だね。頼りにしているよ」
敬愛する先輩からの返答に満更でもなく微笑むと、照れた表情を滲ませ帰っていった。そんな彼の姿を見届けると、別の仕事のため、さっさと支度を済ませてしまうことにした。

その業務は決められた日の夜に社内の奥の、さらに奥の方の密室へと向かうことから始まる。ひっそりとデスクを離れて、エレベーター横の誰も使わない非常階段を降りた先に、第二の仕事場が待っている。

 佐藤は部屋に入って厳重に鍵を締めた。分厚い茶鼠色の壁に囲まれ、落ち着いた紺色の家具が一揃えで置いてあった。部屋の真ん中には相変わらず無機質な造りのテーブルとイスが用意してある。

 この部屋へやってくる度、気分はひどく憂鬱だ。エナジードリンクで一夜漬けを終えた後のあの倦怠感に近い。華々しい表の姿に反して、垂直落下の滝のような落ち込みようである。日常的には総じて良い精神衛生を保ててはいるが、今のこの時間帯だけはどうしようもない。近頃では入り口の鉛色の扉を前にする都度、ほの青白い炎のちらつく地獄の門に見紛う程度には参ってしまっていた。

 エックス社は、大手の広告代理店である。佐藤はデザイナーとしてエース級の働きをこなしていた。普段のその姿自体は、他の社員と変わらない。ただ違うのは、彼だけは週に1度、特別な仕事を担当しているところである。給料が一回り高い分、選ばれた者にしかできない重要な業務を行っているのだ。社内では本人と最上層部の人間しか知らない。勿論内容は誰にも言ってはいけないことになっている。

 佐藤はイスに深く腰かけた。硬質な見た目に反して、なかなか座り心地がいい。長時間座っていなければならないため、身体に合わせて楽な姿勢を維持してくれるのだ。収まりのいい位置を見つけると、付属のリモコンで今の気分と体調を入力する。

すると、テーブルには水の入ったコップと数個のカプセル状の薬が現れ、部屋には耳障りのいい音楽や環境音が流れ始めた。

薬をいつも通り手際よく水で流し込む。即効性かつ特別なリラックス効果があり、おかげで頭痛はすぐに治まって少しずつ落ち着いてきた。しばらくすると、すっかり眠ってしまうように出来ていた。

気がつくと、昔生まれ育った実家のリビングを天井付近から眺めていた。現実離れした視点に疑問も抱かず、部屋の様子を見下ろしている。中心にはアルバムで観たことのある自分の後ろ姿があった。

これは幼稚園に行っていたくらいの年齢のころくらいか。リビングを覆ってしまうくらいの大きな白い画用紙にたくさんの絵を描いていた。隣には若かりし頃の母親が満足そうに微笑んでいる。そういえば小さい頃は絵描きになるのが夢だったか。周りには紙だけではない。クレヨンも色鉛筆も何でもある。幼い彼は童心にかえって思い思いの絵を描いていた。毎週欠かさず観ていた特撮ヒーローと怪獣の戦闘シーン。ワクワクしながら妄想していた昆虫同士のバトル。園の運動会で活躍したときの勇姿。

次々と生まれる作品を見ては、ああ、あんなものが好きだったなぁ、こんなことやっていたなぁと数々の思い出に浸り懐かしんだ。

その様子をじっくりと見守っていると、間も無く映画のカットが切り替わるように次の場面へと移る。

これは実家の、自分の部屋か。またもや机から本棚にベッドまで見渡せる変なところにいたが、違和感はなかった。

今度の佐藤は中学生か高校生だろう。テストが控えているのか机に向かって勉強している。そうだ、この時は地元の国公立大学の文学部を目指していたはずだ。夢に向かって一生懸命突き進んでいたはずだ。自分の作ったものによって他人に影響を与えるようになりたい。そんなことを考えていた気がする。多感で将来の不安や好きな子に対してもやもや悩んでいたあの頃の自分。きっと君は夢を叶えられる、いや叶えたんだと一言言ってあげたかった。しかし、それはままならない。

 同じようにして、佐藤は自分の人生を振り返っていった。懐かしい思い出がショートムービーのように上手くまとまっている。各シーンは夢の中だからか、感傷に浸れるようにか、効果的に演出されていた。どれも今の彼を形作るにはふさわしいようなエピソードに思われる。

 最後は入社してすぐの頃。働く意欲に溢れた、キラキラと目を輝かせる彼の姿があった。これまで同様、ふわふわと浮かんでいる現在の彼は当時の自分に共感していく。それはもう今すぐにでも仕事場に戻りたいくらいに。

 後味のいい目覚めだった。

佐藤はちゃんと地に足をつけて、気持ちよくイスにもたれかかっている。目の前のテーブルには、眠りにつくときには無かった時計がセットされており、横には普段彼の使っている洗面用品、着替え。この業務明けはいつもこの部屋から出社する。時間にはまだ余裕があった。のんびりと身支度をしながら、彼はつい先程までみていた夢の中身を反芻していた。

 佐藤はいつも激務をこなし、トップクラスの成績を残している。

徹夜も朝帰りも当たり前というシビアな環境にも関わらず、彼は自身のアイデアとデザイン力、何よりも熱い熱意によって勝ち抜いていった。しかし、近寄りがたいようなギラギラした雰囲気はない。彼には常に夢を追い求める純粋さがあると言って、上司から部下まで誰もが尊敬と信頼を抱いていた。

エックス社には彼ほど仕事と自分の夢をマッチさせて、充実した働き方をしている人間はいない。

そんな彼を見て働く意欲の湧かない社員がいるだろうか……。

 今やどの会社でも優秀な社員に目をかけて、特別な仕事をさせるようになった。どこもおおっぴらにはしていない。そもそも秘密を守る人間しか選ばれることはない。彼らは夢を叶えて生きている姿を晒して、皆の憧れとして働くモデルケースになれ、と命じられるのだ。そのためには何が必要か。行き届いた福利厚生はもちろんのこと、いつしか上層部によってこうした洗脳じみた催眠療法が行われるようにまでなっている。

 やりがいだけでは生きていけない世の中では、誰かが救ってやらなければならない。手段の一つは希望を与えることだった。ただし、そう簡単に出来ることではない。広告で起用する俳優に不祥事が起きては困るように、夢を与えるにはそれ相応の犠牲が必要であることは自明であった。そうして生け贄になること自体もまた経済活動の一部として社会に溶け込むこととなった。

佐藤は本日も朗らかに声を響かせて、出勤していく。一見して、その姿は輝かしく見えることだろう。

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