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音楽をめぐる勘違い

 普段は見られない神社の裏側劇場が面白いと書いたら、「宇宙人がかつお節を運んでいる姿の方が余程笑える」と言われてしまった。健全な笑いであるならどちらで面白がってくれても良いのだよ。笑いで体温が上がれば免疫力も上がるのだ。地球人の皆さん、大いに健康に励んでくれなのだ。
 東京もようやく桜の開花宣言をし、急に夏日になったり大雨が降ったり、年度が変わってルールも変わったり値上げが増えたり。あ、チョコレート値上げするのか。普段あまり食べないくせに値上がりすると聞くと急に食べたくなるね。先日友人と銀座の新名所ビルを歩いていたら、専門店のプリンが1カップ800円だった。ラーメン一杯が千円を超えても驚いていたのに、もうプリンが迫っているのか。駄菓子のチョコで躊躇している場合ではないな、とキットカットの袋詰めをスーパーで購入する宇宙人。あれ、キットカットってこんなに小さかったっけ。暫く食べてないから気付かなかったよ。ステルス値上げチョコであったか。

 気を取り直して読書をしよう。本も値上がりしてきているが、図書館が買ってくれるものは有難く利用する。去年亡くなった坂本龍一氏の回顧録『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読んだ。音楽家ならではの視点や考察に共感するところかいくつもあったので、例によって読書時間のない方のために宇宙人ポイントを抜き出しておこう。※印は宇宙人の合いの手。

――ぼくの中でひとつはっきりしたのは、ニュートンが唱えた「絶対時間」の概念は間違っているということです。彼は、絶対時間は観察者とは無関係に存在し、いかなる場所でも一定の速さで進んでいく超経験的なものだと主張したわけですが、そんなわけはない。時間は言ってみれば脳が作り出すイリュージョンだというのが、ぼくの今のところの結論です。それなのに、我々の生活様式は何世紀もの間、ニュートン的な時間観念に基づいたルールに規定されてしまっています。もっと厳密に言うなら、19世紀末の感覚から変わっていない。いや、そのルールがより緻密になってきている。(略)(最新アルバムの)『async』はasynchronizationの略で、「非同期」という意味です。いま世の中に流通するほとんどの音楽が同期を求める中、ぼくはそれに異議を唱えたかった。これも時間という存在そのものへの懐疑ですね。――
(※欧米人の考え出したものは大抵間違っていると確信している宇宙人。間違っているというより片手落ちなのだ。物事の半面しか見ていないのに、あたかも全面を網羅したかのように宣伝する。それを鵜呑みにした者は、真実への遠回りを強いられる。物事には陰陽があるので、半面が見えたのならもう片方の半面もフォローしてから宣伝してほしいのだ。)

――アメリカ・インディアンの哲学をナンシー・ウッドがまとめた『今日は死ぬのにもってこいの日』というタイトルの本がありますが、この感覚はちょっと面白い。ウォリアー(闘士)としてのプライドが込められた言葉なのかわからないけど、何がなんでも延命するのが善なんだという近代の考えを真っ向から否定する、このさっぱりした諦観には憧れがある。――
(※コロナといい紅麹といい、現代人は健康を求めれば求めるほど健康から遠ざかっていく。宇宙人の目の黒いうちに「延命こそが善」という価値観が医療面からも哲学面からも撤廃されることを願う。)

――本来、自然界はすべて繋がっているのに、言語によって線引きが与えられます。もちろんそれによって得られるものもあるのでしょうが、どうもそれが人間の間違いの原因じゃないかと、歳を重ねてから感じるようになりました。…そもそもぼくたちの身体だって、実は多分に流動的なものです。なのに言語と結びついた瞬間に固定されてしまう。思えば、ロゴス的な認識から逃れ、ピュシス――自然そのものに近づきたいという願いが、この時期からあったのです。(略)生物学者の福岡伸一さんに言わせると、夜空の星同士を勝手に繋いでしまう人間の脳の特性、つまり理性のことをロゴスと呼ぶのに対し、本来の星の実像の事はピュシスと呼ぶ。フィジクス(物理学)の語源で「自然そのもの」という意味ですね。ぼくたち人間はどうしたらロゴスを超えてピュシスに近接しうるのか…――
(※ロゴス上位の思想だって西洋のものである。我々東洋世界にはもともとなかった。だからロゴス上位の思想がもたらす災いや間違いを、我々が踏襲する必要はない。東洋には西洋にない「気」が昔から上位にあった。)

――やっぱりぼくは、あらかじめ描いた青写真に近付けていくというアプローチに生理的に拒否反応を示してしまうんですね。台本を作り込んで来る『スコラ』(NHKの教育番組)の制作人に対してカンカンに怒ってしまいました。教育番組なのに、子供よりもむしろ大人への指導で骨が折れる経験をした。…60年代は、もっとデタラメを歓迎する空気が世の中全体にあったはずです。テレビをつけるとメチャクチャな番組を平気でやっていた。…今だとクレームが殺到して炎上しかねません。実に息苦しい時代になったなと感じます。――

――いわゆるハワイアン・ミュージックの持つ雰囲気が嫌いだったが、調べているうちにこのハワイアン・ミュージックが実は近代以降に誕生した、括弧付きの「伝統音楽」だったことを知りました。アメリカの領土となって間もない20世紀初頭、ハワイのミュージシャンたちは大陸からやってくる白人観光客を楽しませようと、カントリー・ミュージックを変形させてあの異国情緒のある音楽を生み出した。つまりホテルのディナーショーやプールサイドで演奏するために、いわば支配者側の欲望を取り入れる形で創られた文化だったんです。…正真正銘の伝統を受け継ぐミュージシャンたちが、資本主義を生き抜くため、普段はリゾート用の偽の伝統音楽を奏でている。ハワイアン・ミュージックに対する子供の頃からの自分の生理的な拒否反応は、決して間違っていなかったのですね。――
(※坂本氏はこの他にも自分が聞いていて堪えがたいと思う楽曲をいくつか挙げている。その一つが「〽みんなまあるくタケモトピアノ~」で、闘病中に夢で見てうなされたそうだ。宇宙人も嫌いな音楽は多数あるが、これからは堂々と言おう。まずはクラブやコンサートなどの大音量空間。最近はガソリンではなく電気で動くクレーン車が人気でよく売れていると聞く。理由は「騒音が小さいから」。騒音は健康被害を訴えられるリスクがあり、建設会社は騒音の大きいガソリン車からEVクレーン車への乗換えに積極的だそうだ。宇宙人もオーケストラやパイプオルガンの大音量が不快だったことはないが、アンプで機械的に増大させた音量は昔から耐え難かった。映画館でもイヤな時がある。地球の皆さんは何であんな耳が悪くなりそうな音量がお好きなのやら? 電子音もウンザリな宇宙人は、坂本龍一氏のYMO時代のテクノミュージックも好きではなかった。電子音を聴きたくないあまり、目覚まし時計はいつも鳴る前に目覚めて止める宇宙人なのだった。)

――ブルーズは19世紀後半に奴隷としてアメリカへ強制的に連れて来られた黒人たちが築き上げた音楽ジャンルですが、不思議な事に、彼らの出自であるアフリカの国々にはブルーズのような音楽はない。既に失われてしまった故郷へのノスタルジアが、新たな文化を生んだのです。ゆえにぼくは、郷愁の感覚こそ、芸術の最大のインスピレーションのひとつだと思うんです。――
(故西部邁氏が、能天気な長調の音楽ばかり溢れる文化は軽薄だ、みたいなことを言っていた。深みのある文化には短調の音楽に親和性があると。宇宙人はロシア音楽がまず思いつくが、ロシアの歴史を眺めれば、いつの時代も能天気とは程遠い。それでも一番能天気だったのは、もしかして70年代前後の旧ソ連時代だったかも。)

――タルコフスキーは、そもそも映画には音楽は要らないのだと主張しました。世界それ自体に既に音楽があるのだから、わざわざ後から足すことをしなくても映画は音楽に満ちていると。例えば『サクリファイス』では、タルコフスキーにとって大きな存在であるバッハの『マタイ受難曲』を使っていたりはするものの、別の部分で流れる尺八の曲は、最初は風の音にしか聞こえない。また『ノスタルジア』におけるサウンドトラックは水でした。非常に注意深く設計された水の音こそが映画音楽なのです。――
(※タルコフスキーと聞いて目が覚める宇宙人。『サクリファイス』のバッハも『ノスタルジア』の水音も、覚えているぞ。タルコフスキーの映像はどれも浮世離れして美しいが、そういえば音楽もちゃんと記憶に残っている。どれも美しい音だが、映像に溶け込んでほとんど意識することがなかった。言われてみて気付いたよ。意識していなくても、ちゃんと記憶に刻まれた良質の音楽だったのだな。)

――考えてみれば、アルバムは音楽市場の中で流通させるために作られたフォーマットで、一枚当たりおよそ60分という収録時間も含めて、便宜的に与えられた形に過ぎません。新しい音楽ができたら、特定の場所に数名だけのお客さんを招待し、茶室でもてなすように発表をしたっていい。今やCDも売れない時代になってしまったから、ひょっとするとそちらの方がお金になるかもしれません。――
(※琵琶をやっている身として言うなら、ハイパーソニック・エフェクトを備えた生演奏以外の音楽には、音楽に特有の治癒効能や威力がない。ではCDやネット配信の音楽とは一体何なのか。今後の社会の価値基準を考える上で、過剰な健康嗜好とその弊害と共に、議論していくのが自然な流れである。)

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