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昭和、平成、そして今。

カリスマじゃなくていいんだよね、っていうタイトルすごくいいな、って思った!
今のみんなの気分というか空気感を言い当ててる!

思い返せば私たちが10代の頃(つまり90年代)は、カリスマ美容師とかカリスマ歌姫とかカリスマ店員とか、カリスマって言葉が時代のキーワードだったのかもしれないね。
少し前に詩人の最果タヒさんが、勝手に始まって勝手に終わる平成に、私の30年をくるっと包んで「いい感じ」にまとめるつもりは毛頭無いけどってツイートしてて、それを見て私も確かにそうだよな、と思ったんだけど、
カリスマに憧れなくなった(カリスマを目指さなくていいんだと思うようになった)ということも、ある意味平成が終わりを告げる感じの象徴的な感覚なのかも?なんて思ったよ。

そしてあすかが書いてくれた、
「表に出るのが恥ずかしい」という感覚がしみついてしまっているけれど、こういうのってどこから来るんだろう、というテーマについて。

私も長い間ずっと考えてたし、今も明確な答えがあるわけじゃないんだけど、今の考えをちょっと書いてみるね。
もちろん生まれ持った性格とかも大いに関係してるんだとは思うんだけど、やっぱり教育というか、私たちが育った子ども時代の価値観の影響を強く受けているような気がしてるんだ。

noteの別の記事にも以前書いたことがあるんだけど、
私、3歳になりたての頃くらいから習い事としてバイオリンをやってたのね。18歳の大学受験の前まで続けてたから、今でもちゃんと爪を短くして少し練習すれば、それなりに弾けるくらいまでにはなって、先生と両親にはすごく感謝してる。

ただ、当時はそれこそまだ昭和で、部活でも働き方でもとにかくストイックさが当たり前だった時代だし、
バイオリンという楽器の特性として、ただ音を出すだけでも一筋縄ではいかないところもあるから、とにかくレッスンが厳しくて、毎日サボらず練習して先生のところで上手に弾けたらすごく褒められるし、ちょっとでもサボると徹底的に怒られて(なぜかサボるとバレる。特に地味な音階とか。練習は裏切らないってことをここで学んだよ笑)、
毎週レッスンに行く車の中は心がキューってなる感覚がしてたんだ。
爪を噛むクセもあったから、今考えると子どもの私には結構強いストレスだったんだと思う。

ただ、上手に弾けると先生は過剰なまでに褒めてくれたし、自分の身体の柔軟性とか音に対する感性みたいなものがバイオリンには合っていたようで、成功体験の原点みたいにもなっていて。
練習サボって上手く弾けない素の自分はダメで、毎日地道に努力して練習して上手に弾けるとみんなが褒めてくれる、みんなが喜んでくれる=表に出ていい、っていう感覚が私の土台になった。

だから勉強でも仕事でも、地味な努力をして目的を達成することが自分のスタイルだと思って疑わなかったし、表に出すものは完璧に近いものじゃないと許されないって思ってたから、その感覚が、私なんかが表に出るなんて恥ずかしい、おこがましいっていう感覚に繋がってたのかな、ということに気づいたのが去年の秋頃だったよ。

努力とか人に見えないところで地道にがんばる、みたいなことで身につけた基礎体力が今の自分を作っていることは間違いないから、
努力なんて意味ないよね、とはなかなか言い切れないんだけど、
でも一方で努力をしなくてもなぜかすーっとできること(私の場合だと、文章で要点をまとめるとか女の子のイラストをささっと描くとか、相手の話をよく聞くとか)を伸ばして行く人生の方が、この先楽しそうだし無理がなくていいな、と思って。
ダメな自分(練習サボっちゃったり音程外して弾いちゃう自分)でもいいや、って自分で認められるとすごく生きやすくなる、っていう感覚が今はあるよ。

1月にある人と色々話してて、その人がふいに「ダメな由香ちゃんがいいよ」と言ってくれたとき、すごく肩の力が抜けて楽になった。

雑誌は校正を何回もして、締切ギリギリまでなんとかその時点でできる最大の完璧さを作って世に出すもので(それでもたまに誤植とかあるし、毎回もっとああすればよかったと思うけれど...)、それが紙媒体の美しさだよね。
それはそれとして、撮って出しというか荒削りなものの中にも別の魅力が確かにあって(noteとかはそっちだよね)、
その両方をバランスよくやっていくのが、これからの私たちには心地いいのかもなって思うんだけど、あすかはどうかな?

なんだか「お砂糖ひとさじ」っていう夢のあるタイトルには似合わないヘビーな話になってしまってごめんね...

#エッセイ #往復書簡 #平成最後

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