いちょう並木のセレナーデを聴きながら
シンガポールで暮らすあすかの文章を読んで、ソフィア・コッポラの「ロストイントランスレーション」をなぜだか思い出したよ。
日常と非日常のあいだで漂っているような今のあすかと映画の雰囲気が、自分の中でリンクしたんだと思う。
昨日Mステになんとオザケンが出てて、それで色々思い出して今朝聴いてて。東京は「いちょう並木のセレナーデ」がぴったりの季節です。
(何年か前あすかが連れてってくれたzeppのオザケンライブは私の宝物のひとつです)
あすか、自由大学って知ってる?
4、5年前に自由大学のiPhoneで動画を作ろうみたいな講座に通ったことがあったんだけど、それ以来自由大学の存在はすっかり忘れていて。
つい最近自由大学からのメールマガジンみたいなものをなぜか偶然開いたの。
そしたら「才能に目覚める手相学」っていう講座の紹介文が目に入って、その内容が私がここ一年くらいずっと感じていることとすごくリンクしていて。その一部を紹介するね。
「才能」とは、努力なく、周囲よりできてしまうこと
幼いころ、「君たちには無限の可能性がある」と先生に教わったけれど、大人になれば当然わかります。努力だけではどうにもならない、「人間には向き不向きがある」のが現実です。
(中略)
「強み」とは、努力なく「自然にできてしまうこと」。強みを使うとき、人はストレスを感じることなくそれが「できてしまう」のです。ゴリラの怪力もウグイスの美声も、地道なトレーニングで身につけたものではありません。
(中略)
誰もが才能を持っている。他人になろうとせず、より自分になろう
「苦手を克服し、なんとか人並みに」
もちろん、このような弱点をなくす努力も大切ではあります。しかし、その弱点を「仕事上の売り物になる強み」にまで高めるのは現実的ではありません。時間をかけ血の滲むような努力でやっと「人並み」にしたところで、それは売り物にはなりません。あなたの仕事は、それが「その他大勢にはできない希少価値」だから、売り物になるのです。
それで何かにピンときて、この2時間の講義に参加してみたの。
もちろんいきなり手相が見れるようになった!とかでは全然ないんだけれど、他の参加者の人たちと自分の手の平を見せ合ったりすると、当たり前なんだけれどみんな手の形も指の長さも肉付きも色もそれぞれ全然違って。そこから読み取れる手相ももちろん違って。
人と違って当たり前で、正解なんかなくて、外に答えを見つけようとするよりも、自分の手の中に実はヒントがあったんだ、っていうのが、頭では分かっていたけれど、手っていう目に見えるものに現れていることが地味に発見だったの。
自分にとって自然にできてしまうことって普通すぎて自分では見えづらいし、当たり前すぎて大したことないって思ってしまうけれど、一人ひとりが得意なことを伸ばして、得意なこと同士を交換して、そういう循環の世界で生きていきたいな、って強く思ったんだ。
最後に、さっき一部紹介させてもらった文章のリンクを貼っておくね!
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