見出し画像

【コラム】いろんな視点で見ているという勘違いに気づいた話

唐突ですが、みなさん、マイクロアグレッションという概念をご存じですか?

Micro Aggression=小さな攻撃性。

簡単にいうと、差別する意図はないのに、無意識にある偏見によって、日常の些細なシーンで出てくる小さな差別的な言動のことです。

これについて、ライター古澤は「自分がマイクロアグレッションをしないように注意しよう」というスタンスでずっと捉えていました。

もちろん、私は、される側の気持ちをわかっているつもりでした。

されたら不快なことはわかる、と。

だから、自分は、する側とされる側、両方の視点をちゃんとインプットしていると思っていました。

ところがちょっと前に、ドカンと金槌で頭を殴られるくらいの衝撃の気づきがありました。

されたら嫌なことはわかる、という程度では、される側という異なる立場の視点を本当にインプットしているとは言えないのだと気づかされたのです。

わかると感じるは全然違うと気づいた

その強烈な気づきを得たきっかけは、とあるYouTube番組でした。

番組内で、ハーバード大学医学部助教授、精神科医の内田舞先生がマイクロアグレッションについて、「蚊に刺され」に例えて解説していらっしゃいました。

蚊に刺されは、すごく不快だけど、生命に関わることでないので、1回刺されたくらいなら我慢することはそこまで苦ではありません。

ところがマイクロアグレッションを受けている人は、365日、四六時中、蚊に刺されているようなものなのだと先生はおっしゃったんですね。

つまり、一つ一つは小さなことだけど、その回数が多いからきついのだと。そして回数が多くてきついから、声をあげているし、時に感情的にもなる、と。

内田先生の話の要点は、差別的な扱いを受けていると声をあげる人たちに対して、「ちょっと過剰反応では?」「感情的になりすぎでは?」という反応が出るとしたら、その人たちのいる環境を想像できていない可能性がある、というようなことでした。

それを聞いて初めて、私は「確かに毎日蚊に刺されるのって相当イヤだな」と、自らの感覚を通じて共感するという感覚を得ました。

逆にいうと、「されたら嫌なのはわかる」程度の理解では、相手の立場の視点を本当にインプットできているとは言えないのだと気がついたのです。

痛みがあることはわかる、というのと、痛みを我がことのように感じられる、というのは違うのだ、と。

アウトプットが大きく変わり始めた

そのことに気づいた時、思い浮かんだのは、「アジア人であるせいで嫌な思いばかりしている」といつも言っている友人の顔でした。
*ライター古澤はカリフォルニア在住

私は彼女に反論したことはありませんが、心の中には「差別されるという前提を持っているから起こる出来事が全てそういうふうに見えるんだろう」とか、「物事のポジティブな面を見るようにしないとそこから抜け出せない」などと考えている自分もいたことは否めません。

たとえば一緒に行ったレストランで店員さんの愛想がよくなくても、私は「そういう人もいる」としか思わないけれど、友人は「アジア人だから冷たくされた」というような反応をするので、物事の捉え方で世界の見え方が違うのだとどこかでは思っていたんです。

でも、よく考えたら、友人は日本人ではないし、住んでいるエリアも一緒ではないですし、働いている環境も異なります。

ということは、もしかしたら、私は年に数回しか蚊に刺されないけれども、彼女は毎日蚊に刺されているのかもしれない、と友人の立場になって想像してみることができたんですね。

そして、そのように想像してみたら、「物事の捉え方の違いだ」という考えとは違う気持ちが出てくるようになったんです。

もちろん、物事の捉え方の違いだというのも間違いでないこともわかります。でも、あくまでもある前提、ある側面から見たら、というだけなんだってことがようやく腑に落ちて、私のアウトプットが変わり始めたのです。

動作学では、アウトプットを変えるためには、インプットもしくはプロセスを変えるしかないというのが基本。

インプットの視点を増やす、つまり異なる立場の視点で見てみるということは、インプットを変える方法の一つです。

でも、異なる立場の視点で見るというのは、ただ違う視点があると知っているだけでは足りず、違う視点から眺めてみるだけでもちょっと足りず、違う視点に自分が身を置いてそこにいる気持ちまで想像することができた時、大きくインプットが変わるんだと身をもって体験したのでした。

もちろん、違う視点に身を置く自分を想像したところで、あくまで想像だから、本当に理解することはできません。

でも、それはお互い様。

それぞれが、それぞれの立場の視点を自分ごとに感じられるくらいインプットできたら、互いの正当性を主張して論破を目指すような議論でなく、創発を起こすような対話が自然にできるようになる、ということなんだと思います。

自分が実現したい世界はそっちだな。

そんなふうに、私にとって動作学は、ありたい自分、目指す世界を実現するために、何を実践すればいいかを見えやすくしてくれるレンズなのですが、皆さんにとっては動作学はどんな存在でしょうか?