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たそがれ商店街ブルース 最終話 心の風邪

 玄関の扉を開けて家の中に入ると、ひんやりと冷え切った空気の中に、どこか落ち着く匂いが混ざり合っていた。それは私の匂いであり、私が生活する中で発生させた匂いであり、それらが染みついた私の家の匂いだった。
 私は靴を脱ぎ、玄関を上った。そして、台所の床に買い物袋を置くと、隣の部屋へと続くふすまを開けた。すると、より一層私の匂いがした。ほんのりと漂う畳の匂いの中に、確かに私の匂いが混じり合っていたのだ。
 部屋の中ほどに置いてある小さな座卓の上には、昼間、戒めのために置いたティッシュがそのままの状態で置かれていた。きちっと整頓された部屋の中で、それは一種異様な存在感を放っていて、まるで拾い忘れた私の魂のようにも見えた。
 私は窓際まで歩いていき、塔子ちゃんがよく見えるようにレースのカーテンを開けようとした。しかし、使用済みのティッシュが塔子ちゃんから丸見えになってしまうことが、なんだか急に恥ずかしいことのように思えてきて、私はそのままカーテンから手を離した。

 再びキッチンへ戻ると、私はすぐに寄せ鍋を作り始めた。
 2くちコンロの右側の火元に、大きめの雪平鍋を置き、3分の1の高さまで水を入れる。そこに粉末の和風出汁のもと、醤油、酒、みりんを加え、切った具材を放り込んでいく。そして、白菜が山盛りになったところで、コンロのつまみをカチッと回し、強めの中火で火を付けた。
 鍋が沸くまでの間に洗い物を片付けてしまうと、私は一旦隣の部屋へと移り、座卓の真ん中に置いてある使用済みのティッシュをそっと端に寄せた。そして、そこにできたスペースに鍋敷きを置き、その手前にフクロウのイラストが描かれた箸を置いた。
 私はすかさず台所へと戻り、具材から出てきた灰汁を丁寧に掬うと、乾物が入っている引き出しから餅を2つ取り出して、オーブントースターで焼いた。さらに、それと同時進行でコンロの左側の火元を使い、神田さんからもらったカップ酒を湯煎で温め始めた。
 悪くない。流れはとてもスムーズだ。
 一人暮らしを始めたころは全然慣れなかった自炊だけど、今や手慣れたものだった。毎日続けることの大切さはこういう時に身に染みるのだと、私は一人悦に入っていた。

 そこから約10分。旨味がしっかりと出汁に溶け込んだのを見計らってから、こんがりと焼いた餅を鍋に投入した。そして、それを鍋ごと座卓の上に運び、温めたカップ酒とポン酢と共に、いつもの位置に座った。
 あれほど山盛りになっていたはずの白菜は、プリンセス天功のイリュージョンマジックにかかったかのように、いつのまにか鍋の中にしっかりと収まっていた。

 私は寄せ鍋に手をつける前に、まずは神田さんから貰ったカップ酒を啜った。すると、酒の香りが口の中いっぱいに広がり、それを飲み下すと、温かい液体が食道を伝って胃の中に落ちていくのを感じた。そして、ふくよかな米の香りが鼻の奥から抜けていくと、程なくして、胃の中にポッと明かりが灯ったような感覚が訪れた。それは商店街の街灯のように優しくて、温もりのある感覚だった。
 私は、今頃神田さんは何をやっているのだろうかと想像してみた。神田さんは隣町のスナックに遊びに行くと言っていたが、時刻はまだ19時にもなっていないので、開店までにはまだ時間がある。ということは、まだ自転車で街を徘徊しながら話のネタを探しているのかもしれない。もし、仮にそうだとしたら、実に能天気でうらやましい。でも、なぜか憎めないのが神田さんだ。私があちら側の商店街で職務質問を受けていたことも、スナックで笑い話にされるに違いない。でも、それで神田さんが楽しいひと時を過ごせるならば、私としても警察に止められた甲斐があったというものだ。

 私はもう一口カップ酒を飲んでから、トミさんのところで買った白菜にポン酢をつけて口に運んだ。白菜は鍋の出汁をたっぷりと吸って、とろりと柔らかく、とても甘かった。
 トミさんは、水川ヒロシの日だと言って張り切っていた。これから青木さんの家で、水川ヒロシのライブビデオを見ながら、団扇を振り回して黄色い声を上げるのだろう。そしてきっと、天国にいるご主人もそんなトミさんを見て「またやってらあ」と笑うに違いない。私は「ひー、ひひー」と笑い声をあげながら、団扇を振り回しているトミさんの姿を想像して、思わず頬を緩めた。

 私はいつものように、商店街で買ったもので作った夕飯を食べながら、そこで暮らす人たちのことを想っていた。
「酒処ご縁」で、自分が卸した魚をつまみに酒を嗜む力さんを。そのかたわらで、また要らぬことを言ってゲンコツを喰らっている田中さんを。
 そこにはいつもと変わらず温かい空気が流れていて、聞き慣れた声が響いている。変わり映えするようなことは何も起こらないけれど、私にとってはそれがとても心地よかった。
 でも、なぜか今日は、同時に少しだけ寂しくもあった。

 カップ酒の酔いがまわるにつれて、その寂しさは次第に大きくなっていった。もしかしたら、まだ下がりきっていない熱のせいもあるのかもしれないし、クリスマスが近づいているせいもあるのかもしれない。とにかく、いつもなら全然気にならないはずの1人の夜が、今日はやけに寂しく感じるのだ。

 私は思わずレースのカーテンを開けた。
 しかし、今夜の塔子ちゃんは冬の冷たい夜風にさらされているせいか、とても冷ややかで無機質だった。
 私は居ても立っても居られなくなり、この寂しさを紛らわしてくれるものはないかと、部屋の中をぐるりと見回してみた。すると、ハンガーにかかっているコートのポケットから、ジッパーつきの小さな袋がはみ出しているのが見えた。それは、あべこべの神社で河童に手渡された、謎の白い粉が入った袋だった。
「心の風邪に効く薬のようなものです」
 河童は確かそう言っていた。
 果たして、今の私が心の風邪をひいている状態なのかどうかはよくわからないが、今の状態がすごく健康な状態なのかと言われると、決してそうではないような気がしていた。

 カップ酒の酔いも後押しをして、私は躊躇することなく、謎の白い粉が入っている袋の封を開けた。そして、人差し指の先端に舌で唾液を付けると、そこに謎の粉を付着させて口に運んだ。
「えっ、美味しいじゃん」
 それはまろやかで、ヨーグルトのような味がした。私は薬品特有の苦味がやってくることを予想していたので、それはとても意外だった。
 あまりにも意外だったので、私は自分の味覚がおかしくなってしまったのではないかと思い、もう一度、同じように指先に謎の粉を付着させて口に運んでみた。すると、やはりヨーグルトのようなまろやかな味がして、とても美味しかった。

 私はもう一度部屋の中をぐるりと見回した。
 この意外性を誰かと共有したいという欲求が、私の中でふつふつと湧き起こってきていたのだ。しかし、始めからわかっていたことではあるけれど、この部屋の中に私の話を聞いてくれる人なんて一人もいなかった。

 ひょっとしたら、塔子ちゃんなら話を聞いてくれるかもしれない。
 そう思い立った私は勢いよく窓を開けた。
「塔子ちゃん、これ苦いと思うじゃないですか。でもですね、実はこれヨーグルトみたいな味がして、すごく美味しいんですよ」
 私は塔子ちゃんの反応を待った。しかし、塔子ちゃんは冷たい夜風にさらされたまま、感情のない鉄の建造物と化してしまっていて、私の言葉にはまったくどんな反応も示してくれなかった。
 窓の外は物音ひとつしない。私の声を遮るようなものも何もない。なのに、すぐそこにいる塔子ちゃんにさえ私の声は届かないのだ。

 開け放たれた窓からは、冬の冷たい風が入り込んできて、座卓の上に置いてあった使用済みのティッシュを畳の上に落とした。
 私は堪らなかった。普段は誰かと何かを共有したいなんて思うことはほとんどないはずなのに、なぜ今日に限ってこんな風に思ってしまうのだろうか。これが本当にクリスマスが近づいているせいだというならば、クリスマスなんて二度と来ないでほしいとさえ思った。
 私は畳の上に落ちたティッシュに目をやった。すると、それはなにものでもない、ただの薄汚れたティッシュだった。
 私は一気に酔いが覚めていくのを感じた。いったい私は何をやっているのだろうか。私は立ったまま、残っているカップ酒に謎の粉をすべて入れてしまうと、それを箸の持ち手で勢いよくかき混ぜて、完全に溶かした。そして、それを一気に喉の奥に流し込み、ゆっくりと窓を閉めた。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか、5分か、10分か、それぐらいのものだと思う。私は空になった雪平鍋を前にしたまま膝を抱えて座り、結露がついた窓越しに塔子ちゃんをじっと見つめていた。すると、なぜか顔が火照ってきて、次第に燃えるような熱さに変わっていった。

 熱い、熱い、なんだこれ、熱い、爆発する。
私は燃えるように熱い顔面に焦り、慌てふためいた。
 これは絶対にアルコールのせいではないし、風邪のせいでもない。ましてや、クリスマスが近づいているせいでもない。それだけはこの37年間の経験と感覚でわかった。
 だとするとなんだ、やはり謎の粉が原因だとしか思えない。
 私は河童を憎んだ。
 ちくしょう、あの河童め、とんでもない物を飲ませやがって。
 私は居ても立っても居られなくなり、風呂場から急いでプラスチック製の洗面器を持ってくると、それを台所のシンクに置き、勢いよく蛇口をひねった。そして、洗面器に水がたまると、私は躊躇なく顔を突っ込んだ。
 12月の水は冷たくて、とても清らかだった。
 しばらく洗面器で冷やしたのちに顔を上げると、焼けるような熱さはだいぶ引いていた。私は台所に掛かっていた手拭いで濡れた顔を拭くと、今のはいったいなんだったのだろうかと、考えうる限りのことを想像してみた。しかし、結局河童から貰った謎の粉が原因だとしか思えなかった。
 あれはいったい、なんの粉なんだ。
 私は座卓の上に置いてある、ジッパー付きの袋をもう一度手に取ってみたが、やはりそこには何も書かれていなかった。
 もっとちゃんと詳しいことを聞いておくべきだったと後悔したが、それは完全に後の祭り。私はひとまずコップに水を汲み、それを一息で飲み干した。

 しかし、ほっと一息ついたのも束の間だった。そうこうしているうちに、再び顔が火照ってきて、またしても顔が焼けるように熱くなってきたのだ。

 ちくしょう、これはいったいなんなんだ。
 私は再び洗面器に水をため、顔を沈めた。そして、今度は完全に熱を取り去ってやろうと思い、息が続く限り顔を沈め続けた。
 まだだ、まだだ、まだまだだ。
 私は限界がくるまで洗面器に顔を沈め続けた。そして、もうこれ以上は無理だというところまでくると、勢いよく顔を上げ、口で大きく息を吸って呼吸を整えようとした。しかし、今度は顔が冷えすぎてしまったのか、筋肉がこわばってしまい、うまく口を動かすことができなかった。
 それでも私はシンクの縁に手をついて、顔を濡らしたままなんとか呼吸を整えていった。呼吸が楽になってくるのと同時に、冷えすぎた顔も徐々に動かせるようになってきた。
 私はその場にへたり込んだ。
 いったい全体どうなっているんだ。いったい私が何をしたっていうんだ。
 しかし、私の思いは虚しく、顔の焼けるような熱さはしつこい火傷の痛みのように、何度も何度も私に襲いかかってきた。
 私はその度に洗面器に顔を沈めた。何度も何度もそれを繰り返した。

 果たして何度繰り返した時だろうか。私の中でプツリと糸が切れるような音がして、もうすべてがどうでもよいような、そんな気がしてきた。
「まったくもって、やってらんねえよ」
 私は台所に立ったまま、実際にそう口に出してしまうと、本当にもうどうでもよいような気がしてきた。そして、このままいけるとこまでいってやろうと思い、私は息が苦しいのを我慢して、洗面器に張った12月の水に顔を沈め続けた。
 これでもか、これでもか、これでもかと。


 すると、どこからともなく聞き覚えのある女性の声が響いてきた。その声は決して高くはない、どちらかいうと落ち着きのある印象の声だった。

「ご飯できたわよ。早く降りてきなさい」
 その声に私の中の何かが反応している。

「はーい、すぐ行きまーす」
 こちらも聞き覚えのある声だった。まだ声変わりもしていない、幼い男の子の声だ。
 私は息が苦しくてすぐにでも顔を上げたかったが、その聞き覚えのある2つの声が、私を洗面器の中に引き留めて離さなかった。

「早く降りてきなさいって言ってるでしょ。ご飯冷めちゃうわよ」
 またしても聞き覚えのある女性の声が響いた。
 その瞬間、私は洗面器の中に顔を沈めているにもかかわらず、思わず目を大きく見開いた。
 すると、洗面器の底には、小さな部屋の中にいる1人の男の子の映像がうつっていた。
 洗面器に張られた水の中から見ているせいか、その映像はゆらゆらと揺れていて鮮明ではなかったが、その男の子のシルエットを見た途端に、私は息が詰まるような感覚に襲われた。
「わかってるよ。すぐ行くって言ってんじゃん」
 私はもう限界だった。今すぐにでも顔を上げないと、どうにかなってしまいそうだった。でもなぜか、私はそれができないでいる。

「早くしなさいって言ってるでしょ」
 また聞き覚えのある声がする。

「だからわかったって言ってんじゃん」 
 まったくもって、聞き分けのない少年だった。

 私はあまりにも苦しくて、洗面器に顔を沈めたまま、涙を流していた。すると、洗面器の中の水がどんどんかさを増していき、私はいつのまにか水の中にのまれていた。





 細くなったり太くなったりする雪が降りしきる山道を、私は1人歩いていた。どこから来たのか、どこへ向かっているかもわからない。それでも、とにかく前へ前へと向かって歩き続けていくと、いつのまにか、360度が真っ暗闇に包まれた空間にワープしていて、私は自分が立っているのか浮いているのかもわからなくなった。
 すると、どこからともなく男たちの野太い掛け声が聞こえてきた。
「エンヤコーラ、ハイハイ。エンヤコーラ、ハイハイ」
 そのかけ声は次第に大きくなっていき、いつしか何十台もの和太鼓を一気に打ち鳴らしたかのような轟音に変わった。私はあまりの音の大きさに、耳を両手で塞ぎ、目を強く閉じた。
 すると、瞼の裏側に、舞を踊る男たちの姿があった。ふんどしをしめ、力強く舞を踊る屈強な男たち。その男たちはまるで私を中心にした球体をなぞるように、ゆっくりと移動しながら舞を踊り続けていた。
 私はその球体の中心にいて、耳を両手で塞ぎ、強く目を閉じていた。

 目を開くと、私は布団の中にいた。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ何にも汚されてないと見てわかるくらい綺麗な光だった。産まれたての光だ。
 私は布団に横になったまま手を伸ばし、枕もとに置いてある体温計を手に取ると、それを空中でよく振ってから脇の下に差し込んだ。すると、ひんやりとした心地よい冷たさが身体中に走った。
 私は口を窄めて、空気中を漂っている埃に息を吹きかけてやった。すると、埃たちは楽しそうに光の中をクルクルと駆け回った。
 5分ほど経ち、脇の下から体温計を取り出すと、私は布団から出てカーテンを開けた。冬の青い空をバックにして、塔子ちゃんはバッチリと映えていた。
 私は一度大きく伸びをしてから部屋を見回した。すると、座卓の上には水の入ったコップと、何も書かれていないジッパー付きの小さな袋、それに、丸まったティッシュが綺麗に横一列に並んでいた。
 私は壁際に置いてあるMDタワーから、「Monday morning」とラベリングされたディスクを取り出すと、それをMDコンポに挿入した。
 すると、リンドバーグの「今すぐキスミー」が流れてきた。
 今日はなんだか、よいことが起こりそうな気がした。


おわり

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