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たそがれ商店街ブルース 第4話 遭遇

 井戸に一歩近づくごとに、空気が少しずつ冷えてくるような感覚があった。もしかしたら、井戸の中から冷気のようなものが発せられているのかもしれない。そもそも、井戸の中というのはいったいどうなっているのだろうか。土で埋まっているのだろうか。それとも深い穴が空いたままになっているのだろうか。もし穴が空いているのだとしたら、強い風が吹いただけで落ちてしまうような蓋じゃやっぱり危険すぎる。万が一、子供がふざけて落ちてしまったりしたら、いったいどうするつもりなのだろうか。

 私は恐怖心に支配されないように、そんな取り留めのないことを考えながら、一歩、また一歩と井戸に近づいていった。
 すると、井戸まであと数歩という所まで近づいたところで、灰色の雲に隠れていたはずの太陽がなんの前触れもなく顔を出し、その太陽から発せられた鋭い光が、井戸のすぐ脇に落ちていた金属片に反射して私の目に飛び込んだ。
 私は思わずキッと目を閉じて、反射的に上半身を反らせた。割れた鏡の破片でも落ちていたのだろうか。それはとても強い光だった。
 まったく、さっきからなんなんだよ。
 やり場のない怒りを抱えながら慎重に目を開くと、すでに太陽は何事もなかったかのように雲の中へと戻っていた。その代わり、本殿の床下に人が倒れていた。

 その人は頭頂部をこちらに向けて、うつ伏せの状態で倒れていた。顔は横に向いているようだったが、床下の柱に隠れてしまっているために、ここからは確認することができない。それに、光がほとんど差し込まない床下は想像以上に薄暗く、そこに倒れているのがどんな人なのかということまでは見定めることができなかった。
 私はプロゴルファーが芝を読むときのようにその場にしゃがみ、倒れている人に目線を合わせた。すると、頭頂部の毛髪がすっかりと抜け落ちてしまっていることが確認できた。ひょっとしたら、お年寄りが倒れているのかもしれない。
「大丈夫ですか」
 私は試しに声をかけてみた。しかし、うんともすんとも反応がない。おそらく気を失っているのだろう。なんにせよ、こんな所で倒れているということは、なにかしらの事件に巻き込まれたに違いない。
 私はすぐにでも救急車を呼びにいくべきかとも思ったが、その前にちゃんと状況を把握しておく必要があると思い直し、ひとまずその場にとどまった。救急隊の人に状況を聞かれた時に、何も答えられなかったらどうしようもないと思ったからだ。
 私は低い姿勢を保ったまま、倒れている人の方へゆっくりと近づいていった。そして、さっきよりも大きな声でもう一度「大丈夫ですか」と声をかけてみた。しかし、予想していた通り返事はなかった。
 ダメだ、完全に気を失っている。
 私は返事を待つのを諦めて、地面に両手と両膝をつき、赤ちゃんがハイハイをするような格好で本殿の床下に潜り込んだ。
 本殿の床下にはどことなく神聖な空気が漂っていたが、ところどころに蜘蛛の巣が張られていて、それが顔に張り付いて気持ち悪かった。それに、なぜか嫌な予感がしていた。
 私は倒れている人の頭頂部に向かい、ハイハイの体勢のまま近づいていく。距離が縮まるたびに嫌な予感は少しずつ大きくなっていく。私は柱ギリギリに体を寄せて、倒れている人の顔を真上から覗き込んだ。すると、それは人ではなく河童だった。

 背筋が一瞬にして凍りついた。そして、それと同時に瞳孔が開き、私は呼吸をすることさえ忘れた。次の瞬間、一羽の大きなカラスが地面に降り立った。それは、さっき私の頭上スレスレを飛んで行ったカラスだと直感的にわかる。カラスは右目が潰れてしまっているのか、曇った硝子玉をはめ込んだみたいになっていた。カラスは身動きひとつせず、眉間に皺を寄せてじっと私を睨みつけている。まるで、お前は見てはいけないものを見てしまったのだと警告するかのように。
 カラスは私を威嚇するように鋭く鳴いた。すると、その鋭い鳴き声は矢の如く私の脳みそに突き刺さり、私の思考は停止した。
 心臓が猛スピードで動き出す。屈強な男たちが耳元で和太鼓を打ち鳴らしているかのように鼓動が鳴る。ドンドンドンドンドン。その音圧に押し出されるようにして、私はハイハイの体勢のまま、後ろへ後ろへと後ずさっていった。

 床下から這い出ると一気に視界が開けた。そして、徐々に思考が戻りつつあるのを感じた。しかし、それよりも速いスピードですでに体が反応していて、私は自分でも知らないうちに全速力で駆け出していた。
 思考が体に追いついた時にはすでに鳥居をくぐり抜け、私は雨宮ドラッグの前を猛スピードで駆け抜けていた。ストーカーのような格好をした、元陸上部37歳独り身男子が、地面を蹴り上げて、モノクロの商店街を全速力で駆け抜けた瞬間だった。

 団扇を振り回しながら大きな声で演歌を歌っているトミさんにも、咥えタバコのまま田中さんと揉み合っている力さんにも、私は一切目をくれることなく商店街を走り抜けた。
 トミさんの歌声と力さんのねじり鉢巻が遠ざかり、鉄塔の塔子ちゃんが次第に大きくなっていく。
 私は神田酒店が見えてくると少しだけスピードを落とし、そのまま流れるようにして神田酒店へと滑り込んだ。

 私は入り口を入ってすぐの所にあるレジカウンターに両手をつき、肩を上下に激しく動かしながら呼吸を整えていた。神田さんはそんな私をチラッと見ただけで、何事もなかったかのように、レジカウンターの中で湯気の立つマグカップを口に運んだ。神田さんのもう片方の手には、あちら側の商店街にあるオモチャ屋さんの歳末セールのチラシが握られていて、いつになく真剣な顔でそのチラシを睨んでいた。
「なんかあったの」
 神田さんが呆れたように、無視するのも面倒だからといった様子で私に尋ねた。
「いや、あの、河童、河童、河童が」
 私はまだ冷静になり切れておらず、脳みそと口がうまく噛み合っていなかった。
「あっ、わかった。やっぱりピチピチの子に会いにスナックいきたくなったんでしょう。ったく、山ちゃんもやっぱり男だね」
 私は首を左右に大きく振った。
「いや、あの、さっき神社に行ったら、河童、河童、河童がいまして……」
 すると、神田さんは今はそんな話聞きたくないといった様子で、おもちゃ屋さんのチラシから一切目を離さずに、面倒くさそうに一言だけ「河童ねえ」と呟いた。
 私はなおも食い下がった。
「いや、本当ですよ。五目森神社の井戸の蓋が開いていて、それで、本殿の裏側の床下に、河童、河童、河童が倒れていたんですって」
 私が珍しく声を荒げると、神田さんは私の話を遮るようにしてレジカウンターを両手で強く叩いた。そして、ぬんと立ち上がると、なにも言わずに日本酒コーナーへと歩いて行き、カップ酒を一つ手に持って戻ってきた。そして、そのカップ酒をカウンターの上に音が出るくらい勢いよく置いた。
「さっきから河童、河童ってうるさいんだよ。分かったよ、これでいいんでしょ。ほら、持っていきなよ」
 神田さんは一度カウンターの上に置いたカップ酒を再び手に取り、レザーの手袋をはめたままの私の手に強引に握らせた。そのカップ酒には男女の河童が露天風呂に浸かりながら、顔を赤らめて燗酒を飲んでいるラベルが貼られていた。
 私は訳がわからなかった。
「いや、そうじゃなくて、本当に神社に河童がいたのでありまして……」
「もういいから、黙って持っていきなよ。コレは俺からのプレゼントってことでさ、もうそれでいいでしょ」
 私はますます訳がわからなくなった。
「だって山ちゃん、今日でもうまる4年でしょ」
 プレゼント……まる4年……。
 私は一体全体なんのことが分からずに、マスクの中でポカンと口を開けていた。
「だっかっらっ、この街に越してきて今日でまる4年でしょって言ってんの。ったく、自分のことなのに覚えてないの?そういうとこなんだよ、そういうとこ」
 神田さんは呆れたようにそう吐き捨てると、再びおもちゃ屋さんのチラシに目を戻した。そして、しっしっと私を手で追い払うような仕草をした。
 私はなんとなく腑に落ちない気持ちを抱えたまま、今はこのまま引き下がった方がよさそうだと思い、神田さんに礼を言って、カップ酒をコートのポケットに突っ込んで店を出た。

 私は神田酒店の前で立ち尽くしたまま、これからどうするべきかと考えた。このまま家に戻るべきか、それとも神社に戻るべきか。もし、さっき倒れていたのが本当に河童だったならば、私は警察に電話するべきなのだろうか。それともまずは自治体に連絡するべきなのだろうか。
 私はひとしきり考えた挙句、結局答えを出せないまま、そもそもが私の見間違いだった場合のことについて考えてみた。
 もしアレが河童ではなく、実は人間のご老人だったという場合はどうだろうか。私はご老人が倒れているのに、それを見て見ぬ振りをしてしまったということにはならないだろうか。それに万が一、そのご老人がこのまま息を引き取ってしまったりすることになったら、私は一生このことを後悔して生きていく羽目になるのではないだろうか。
 そう思った瞬間、私はふとあることに気がついてしまった。それは、この期に及んで私は結局自分のことしか心配していないということだった。
 私は自分の卑しい部分が垣間見えてしまったことに、苛立ちを覚えた。そして、そんな自分が次第に甲斐性のない男に思えてきて、イヤになり、ヤケになり、どうにでもなれと突っ張って、再び神社へと向かって駆け出していた。

 私は再び全速力で商店街を走った。塔子ちゃんが遠ざかっていくのに合わせて、力さんのねじり鉢巻とトミさんの歌声が大きくなっていく。しかし、そんなことは今の私にとって関係のないことだった。
 こっちは人命がかかっているかもしれないのだ。
 私は自分が風邪をひいていることなど、とうの昔に忘れていた。

 本殿の裏側まで一気に駆けていくと、先ほどと同じ格好でそれは倒れていた。私は肩で息をしながら地面に膝をつき、床下に潜り込んだ。そして、柱ギリギリに体を寄せて、倒れているそれの顔を覗き込んだ。
 やはり河童だった。私はコートのポケットに手を突っ込み、神田さんからもらったカップ酒のラベルに描かれている河童と、目の前に倒れている河童とを見比べてみた。すると、それはカップ酒のラベルに描かれているカッパそのものだった。
 さらに河童をよく見てみると、背中に唐草模様のような柄をした、平べったい甲羅がついているのが確認できた。それは亀の甲羅のように固いものではなく、ある程度伸縮性のある厚い皮膚のように見えた。私は河童というと全体的に鮮やかな黄緑色をしているイメージがあったが、実際には限りなく人間の肌の色に近かった。

 しかし、これが河童だと判明したところで、私はいったいどうすればいいのだろうか。考えてみたところで何もできることは見当たらない。私は一か八かもう一度だけ大きな声で「大丈夫ですか」と声をかけてみた。すると、やや尖った形状をした河童のくちばし部分が、僅かに震えるように動いた。
 ひょっとしたら、河童が本能的に私の存在を察知して、何かを伝えようとしているのかも知れない。私は反射的に河童の口元に耳を近づけた。しかし、今日は何もかもタイミングが悪い。先ほどと同じように、神社の脇を通る特急列車がけたたましい音を立てて走り去っていったのだ。
 河童が何かメッセージを発したのかどうか、私にはわからない。それに、たとえ河童が何かメッセージを発していたとしても、それは結局、列車の音にかき消されて私の元に届くことはなかった。
 いったいどうすればよいのだろうか。私には皆目見当もつかなかった。
 ただ、そこには河童の口から発せられたと思われる磯の香りだけが、ふわふわと余韻を残して漂っていた。

 その磯の香りが私の中の何かに触れた。
 そして、私の脳内に、ある日の光景をフラッシュバックさせた。

 それは、まだ私が幼い頃に、家族で旅行した冬の浜辺だった。その浜辺では物干し竿に海藻がたくさん吊るされていて、1人のいかつい漁師が、赤と白の縞模様のビーチチェアにどっかと座っていた。全身を黒いウエットスーツに身を包んだ、見るからにいかつい漁師だ。その漁師の首には小型のポータブルラジオがぶら下げられていて、男性のラジオDJが、低音の響く野太い声で天気予報を読み上げていた。
「今日は乾燥が激しいですからね。皆様、火の元には十分注意してお過ごしくださいませ」
 ラジオDJは、念を押すようにもう一度繰り返した。
「今日は乾燥が非常に激しいです。ですから皆様、火の元には十分に注意してお過ごしくださいね」
 その男性DJの野太い声が、私の中で、村田電気の前で聞いたローカルラジオ局の人気DJ、ことみんの鼻にかかった声と重なった。

 すると、次の瞬間、私の目が河童の頭頂部についている皿を捉えた。私の心拍数が一気に上昇する。
 そうだ、乾燥だ!

 私は急いで床下から這い出ると、コートのポケットからハンカチを取り出し、手水舎の水をたっぷりと含ませた。そして、なるべく水分を逃さないようにそっと持ちながら、再び床下の河童の元へ戻っていく。そして、その濡れたハンカチを河童の頭頂部についている皿に当てた。
 皿の周りに生えている毛髪のようなものは脂が付着しているのか、垂れた水をそのまま弾いて地面を湿らせた。皿の部分は水を吸い込んでいるのか弾いているのかよくわからないが、ハンカチ越しに感じる皿の感触が、最初よりも少し膨らんできているような気がした。
 私はそれを3回繰り返した。すると、河童は徐々に息を吹き返してきたようで、小刻みにカパカパと嘴を動かし始め、僅かに瞼を開いた。


第5話へ続く

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