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いましかできへんのちゃう? 森村泰昌の部屋一泊体験


京都も奈良も大阪ミナミも、外人観光客がいなくなって、今が見どきとか言われとるけど、なんと先日、ゲストハウス、ココルーム(釜ヶ崎)の森村泰昌の部屋に当日申し込みシングルユースで泊まれる幸運に。

観光客減で同宿者も数人。私はのんびり森村泰昌体験できたからうれしいけど、こんなきつい状況でココルームがいつまで開業できるか。
いっぽう(そろそろ?)インバウンドが解禁されたら、この部屋、予約で一杯なってしまうやろから、どっち転んでも、いましかできへん「森村泰昌の部屋一泊体験記」

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森村泰昌は大阪出身のアーティスト。名画になりきる表現で有名。ということは知識としては知ってたし、美術館とかで彼の表現を見たことはあったけど、旅という、自分の時間の中で、作品群と「同宿」する体験は強烈。
彼がこんなアホなこと(失礼)やってた意味が、初めてわかった気がする。(少しだけかも知らんけど)

森村泰昌の部屋で考えたこと。
・部屋を埋めつくす画像、アイコンは、よく知ってるつもりのものばかりなんやけど、知ってるはずものとは、なにかが決定的に違う。
いったい私はいままでなに見てきたんやろ?

・終わったて聞いてたけど、やっぱり終わっとったんやな。近代って。国民国家って。マスメディアって。

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以下、たいしたことは書いてませんが、余計な雑音抜きでまずは森村泰昌の世界を体験したいという方は、体験後に読んでいただいた方がいいかも。

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で、森村泰昌の部屋。

したたか呑んで遊んで入室。「顔の多い部屋でも寝れますか?」とフロントでナゾ質問をされた意味が今わかる。
いくつもの顔が顔が顔が・・・四方八方から私を見ている。近代の、現代の、世界の絵描きが、カメラマンが、デザイナーが創造してきた時代のアイコンたちが、私を見おろしている。

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圧巻。しかしこれはどこか奇妙だ。
まず、アイコンたちが私を見返している。本来のアイコンは大衆の視線を一点に集める「見られる」存在であって、大衆を見返したりはしない。アイコンははるかかなたを眼差し、大衆から集めた視線を、大衆の視野の届かない高みに送り出すのが役割なのだから。

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そして、この部屋の、見返すアイコンたちの眼差しは鋭いながらもみな、同じ目つき、一様に森村の目つきをしている。(そらそやろ。)

アイコン=ゾンビ化説
オリジナルな目つきを奪われたアイコンたちは、ぬけがらのように、画面を構成する要素としてのみそこに漂ってゐる。
役割を終えた産業遺産や廃墟が、独特の静かな美しさをたたえて、意味もなくただそこに存在しているように。

この部屋のアイコンたちは、その機能は、構造はそのままに、ただ肝心な何かを失った、でも生きている。例えて言うたら、ゾンビなのかもしれん。
大衆の視線を集め、高みに送り出していたという、かつての近代の視線の流れは途絶えてしまったけれども、それでも森村の手術によって代替物として見返す視線を与えられ、見る-見られるという1対1でループする、わずかな視線の流量によって人工的に生かされている。この部屋のアイコンたちはそういう存在なのかもしれない。

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そして私は気づく。危険な考えに。
アイコンが(あるいは英雄が、アイドルが)ひとびとの視線や熱狂を集め、国や共同体をかたちづくっていた近代のシステムは、すでに終わっているのではないか。という考えに。
中央集権を特徴とし、マスメディアによる国民のコントロールによって支えられた国民国家システムの背骨はすでに変質しているのではないか。
という考えに。

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M.フーコーはかつてパノプティコンという建築の概念を使って、個々人が権力の視線を内面化させる状況を説明した。が、現在、個々人を見張っているといわれた権力の(あるいは神の)視線はもはや無いのかもしれない。
個々人がアイコンをただの憧れとして見るのではなく、その裏にあるはずの監視する神や権力の視線を探そうと、分析的に見つめたとき、そこにあるのは、森村の、権力性を帯びていないうつろな瞳だけ。なのではないか。現代では。

もはやわたしたちは、権力の視線におびえることは、ない。
しかしわたしたちはいま、権力の視線を失ったことに、おびえているのかもしれない。絆の喪失を感じながら。

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「私は気づく。危険な考えに。」と十数行前に書いた。
ここは普通であれば客観的に「私は気づく。危険な可能性に。」と書くべきところだ。が、国家が共同幻想でしかない(B.アンダーソン)のであれば、国民が考えを変えたときに(「国家」の呪縛から逃れたときに)、その国家は瓦解する。「考え」がいま大切なのだ。

近代という体制も同じように、その体制を支えるひとたち(消費者や生産者)が考えを変えれば瓦解する。
そしていま、ひとびとは(少なくとも無意識的には)気づいている。
近代という、この科学と産業と大衆の社会を導いてきた理念(合理主義、経済主義、民主主義)とそれを体現していたアイコンたちの力がかつてなく弱まっていることに。場合によっては無効となってしまっていることに。



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Edouard Manet "un bar aux Folies-Bergére" 1882

フォリー・ベルジェールのバーのねえちゃん

といって私はなにも悲観してはいない。
部屋の窓の上にかかっている「フォリーベルジェールのバー(モネ)」を扱った一枚が私を元気づけてくれる。
モネが描いた原画では、バーに立つおねえちゃんの表情はとてつもなく暗い。ように私には見える。美しくあるべき、楽しくあるべき年頃の女の子が笑えないことがこんなにも冷たいことなのかと私は思わされる。パリの享楽街で夢も希望も破れつつあるひとりの女。多くのひとびとの夢や欲望を吸い上げて踏みつぶして爆走してきた近代という機関車が彼女の背中に見えるようだ。
較べれば、森村の一枚(というか2枚組)には救いがある。
相変わらず彼女は無表情。しかしそれは、もはや彼女がここにとどまる必要はないということを知っているゆえの無表情、この、近代の牢獄にはもはや未練はないという無関心の表情のように思われる。そう、彼女は出口を見つけたのだ。
ここから出ていって、近代が解体された後の世界での生き方を思い描く彼女の表情は笑顔にすら見える。
私が悲観していない理由はここにある。
いつか近代の重荷を解かれたとき、私たちも彼女のように心の中で微笑むことができるだろうと、私もまた夢想するのだ。

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ココルームは大阪のディープサウスといわれる釜ヶ崎(西成区)の老舗のゲストハウス。といってもたんなるゲストハウスではなくて、旅人や街の人たちが出会う場所、そこから何かが生まれる場所。
平たくゆうと、なんか変なエネルギー持った人たち率の高い場所。やと思う。
カフェの奥の庭が個人的には必見。大阪のコンクリジャングルの中でバナナの木に会える。

http://cocoroom.org/cocoroom/jp/guesthouse.html

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