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語りたい…

隣の芝生は青い…という言葉はあるけれど、私はずっと人は人、自分は自分だと思って生きてきた。普通に生活していれば、誰かのことをいいなぁとかうらやましいとか思うことはそれなりにある。でも、それは一過性のものですぐに忘れてしまう。私の生活に変化をきたすようなものではない。いいか悪いかは別だが、私はそれでいいと思っていた。

🐶

それが、このところ少し変わってきたと感じている。SNSには、いろいろな人がいる。私が興味を示しているとどっかの謎のAI君が判断した分野に関するものばかりが私のところにやってくるのだが、それでも実にいろいろな人がいる。

ルールや戦術に詳しい人
試合や選手を見る独特な視点を持っている人
たくさんの人とつながっているらしき人
圧倒的なパワーで推しを推しまくる人
選手たちのステキな表情を逃さず写真を撮る人
あげたらキリがない。
当たり前だが、ドラゴンズファンの私の周りに集まる人と、〇〇好きな私の周りに集まる人は全く接点はない。
とにかくいろんな人がいるのだ。
うらやましい…と感じることも多々ある。

中でも、私が惹かれたのは、書く人だ。
語ると表現した方がよいのかもしれない。
冷静に言葉を選びながら、アツい想いを書く人の文章は本当にうらやましくなる。私が注目している野球関連だけでなく、ステキな表現がいっぱいなのだ。私も書きたい。あんなふうに書けたらいいのに…としみじみ思う。

その形態もバラエティに富んでいて、
俳句、短歌、詩
随筆や紀行文、旅日記
論説文や批評、手紙など、よりどりみどりだ。

🐶

高校生の頃、教科書片手にそれは楽しそうに語る古典の先生がいた。日常の言葉を話すように源氏や大鏡、史記を語る姿を見て、憧れにも似た思いを持った。
先生、古典が好きなんだろうな…
古典ってなんておもしろいんだろう
日本語ってなんてステキな言葉なんだろう
毎時間、そんなことを考えながら、少女のように目をキラキラさせているおばちゃん先生をみつめていたものだ。
今のわたしはちょうどこの頃と同じ気持ちなのだ。
わたしの大好きな世界を、わたしが大好きな日本語で、語りたい。日本語の繊細さや柔らかさ、まとっている空気感も含めて表現したい…そんな気持ちになっている。

だけど…残念ながらわたしにはどうやらその力が足りないらしい。他の人たちが使うようなステキな言葉をチョイスできない…。
他の人たちのような…流れるような文脈も、ふむふむ、なるほどと思うような理路整然とした展開もできない…。
まして、他の人たちのような…奥深さを感じる短歌も…写真も…生み出せない。
他の人たちのような…
他の人たちのような…
他の人たちのような…

🐶

違う。それこそ私は私でいいんだよ。
上手いとか,下手とかそういうのじゃない。
私は私の中にあるものを今の私の言葉で表現すればいいのよ。だって、私の思いなんだから。
自分が納得できればいいのさ。
突然、こんな考えが降りてきた。
文章を書くのは自分と向き合うため。
言葉選びをするのは自分の感情の色をはっきりさせるため。
バラバラの言葉を繋いでいくことは、浮かんでは消える私の感情をとどめ,残すため。
拙い文でもいい…私は語りたい。
語るんだ…🐶

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