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新しいことがうまくいかないからって、「これは自分には合わない」と判断するのは早すぎる

自転車に乗る

5歳の長男が自転車に乗るようになって、しばらく経つ。悠々と自転車に乗る長女の姿をみて自転車をせがみ、いざ自転車が手に入ると全然乗れないことに打ちのめされた彼は、それでも自転車に乗れるようになった。

自転車というものは、厄介だ。どうすれば乗れるようになるのか、口で説明することは難しい。ペダルを漕ごう、前を見よう、速度が出たほうが安定する…確かに自分は自転車を漕げるのに、どこへでも行けるのに、その乗り方を人に伝えることはできない。

そして、この自転車の漕ぎ方のように、「自分ではできるけれども、どうしたらできるのか伝えられない」ものというのは少なくない。子供に自転車を教えるというシチュエーションでは、伝えられない自分に責務を感じるだろう。しかしこれが仕事の現場であれば、ともすれば「どうしてわからないんだ、熱意が足りないのではないか」などと相手方のやる気の問題に転嫁してしまうことさえある。

しかし、そもそも「人に教える」ということは難しい。NLPでは「学習には5段階ある」と定義されている。そして、「人に教える」というのはその5段階の中でも最高位、最終段階なのだ。

新しいことを習得する難しさ

一念発起して新しいことにチャレンジしたとする。先のNLPの定義に従うと、まずは無意識的無能から進み、意識的無能、意識的有能とステップアップし、無意識的有能までたどり着けば当初描いていた「やりたいこと」はできるようになっているだろう。

途中、やりたいことと実際にできることの間には大きなギャップがある。自分で主体的に動き出したものであれば、そういったギャップも乗り越えていけるだろう。

しかし、それが外部から「やってみなよ」といわれたことなら、どうだろう。

「これは自分には合わない」と思わせない

あなたが新しいことを習得し、その素晴らしさを実感し、周囲に伝えたいと思ったとしよう。その新しいことがいかに意義あるかを熱弁し、幸運にも周囲の人に伝道する機会を得た。

しかし、うまくいかない。自分がうまくいくようにできたようには、周囲をうまくいかせられない。人に伝えられないということは、自分自身もまだ習得しているとは言い難いのではないかという思いに駆られ、自分の自信さえ喪失してしまう。そんな経験、ないだろうか。私は、あります。

けれども、自転車の乗り方のくだりを思い出してほしい。外部から教えられることには限界がある。無意識的有能と意識的有能を巧みに使い分けられたとしても、本人の経験が伴う必要のあるスキルについては、外部から教えることで手助けできる領域はそれほど広くないのだ。スクラムガイドにもある。「理解は用意だが習得は困難」と。

では、なにかを人に伝えたい者はどうすればいいのか。

それをすればすべてが解決しますよ、とペテン師まがいのことをいうのではなく、期待値を正しく伝え、習熟の過程で向き合う壁についても伝え、現在地点よりいかに前進できたかというしなやかなマインドセットで支え続ける、そんなシンプルなことができればよい。

できない原因を自分にもとめてしまうと「自分にあわない」という結論に帰結してしまう。でもそれは、まだ無意識的無能や意識的無能の段階にあるがゆえなのだ。その段階を突破するまで伴走することこそが、伝道師であるあなたのするべきことなのだ。

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