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堀川・さくら夢譚10

「いえ・・・」 佐平次は嘘をついた。亡くなった母とともに一度だけ、桜の名所といわれるこの天神さまを詣ったことがある。名古屋の三大天神社の一つであり、桜通りの名称の由来となった桜天神社である。佐平次が訪れたのは萬松寺が現在の大須三丁目に移される前で、桜天神は萬松寺の鎮守として境内の東に位置していた。萬松寺が名古屋城築城にあたり移った後も、この桜天神社だけはそのまま残され、満開の桜を咲かせる大木があったという。惜しくも、その大木は万治三年(一六六〇)の大火で焼失することになるが、名桜は生命力に満ちたこの大木に自身の未来を重ねていた。 「来る年にまことの楽しみができました・・・桜は父上も大好きな花。この大木は見事な桜を咲かせるにちがいない・・・どうぞ、どうぞ、無事に越せますように」 名桜は手を合わせて祈っていた。父の源右衛門、母のお里、奉公に出ている兄、先代の時分から御国屋で働いている弥助の皆で花見をしたいと願った。来る年の幸運を一心に願う名桜の横顔に佐平次は瞠目した。女を知らぬ佐平次ではなかったが、純粋な思いを全身で放つ名桜のような娘は初めてみる心地がした。あまりの懸命さに、なんとか願いを叶えてやりたいと佐平次も熱くなり、つい口を開いてしまった。 「お嬢さんがそれだけ真剣に願われていれば、来る年には必ず見事な桜が見れましょう。お店の皆さんお揃いでお楽しみになる様子が、この佐平次にもみえております」 「まあ・・・佐平次・・・」 「これから堀川は桜の名所になりましょう。いや、そうならなくちゃいけません」 「はい。きっと、美しい桜を見ましょう・・・」 これを約束とは呼べまい。ただ、佐平次と名桜の距離はこのとき、ふっと近くなっていた。

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