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ヘンリー・ダーガーの他者に向かない超厚文脈。

アートはコミュニケーションだって

「アートはコミュニケーションである」という話は正論らしい。さっき知った。
アートもまた意味の発信であり、鑑賞者が受信して成立する。そういう意味で、アートはコミュニケーションといえるんだろう。
表現されたアートは、さまざまな文脈の厚みによってその質や精度を上げている。鑑賞者もまた、文脈理解の多さによってアートへの理解度が上がる。

「感じるままに観れば良い」という良くある一見正しいやつは、文脈理解を放棄しても良いという解釈になった時点で、妥協的な誤りとなる。
ただ、何も理解できないけど、何か物凄いという鑑賞体験も結構ある。
若い頃、なんとなく観た伊藤若冲の紫陽花双鶏図に金縛りにあい、その場から動けなくなる怖い思いをした事がある。そのまま日本美術にハマって仕事にまでなってしまった。

文脈理解はしていないけど、背景にある文脈の厚みを感じ取った時、その凄みに喰らうんだと思う。
現代アートは特に文脈構築が重要になっている。コミュニケーションとしての文脈付けで、評価や金額が変わってくる。
無意味論的には、そういった成立する意味の多い文脈ではなく、成立しないけど強い意味が含まれる、無意味性のある文脈のアートについて考えてみたい。

ヘンリー・ダーガーの無意味性

アウトサイダー・アートというジャンルがある。これは、かつては障害を持つ者のアートという使われ方をしていたが、昨今はアカデミックでない、専門教育を受けていないアート全般という広義の意味で使われる事が一般的になってきていると思う。
そのアウトサイダー・アート界最大のスター「ヘンリー・ダーガー」について考えてみたい。

ヘンリー・ジョセフ・ダーガー・ジュニア(Henry Joseph Darger, Jr. , 1892年4月12日 - 1973年4月13日)はアメリカ合衆国の作家、画家、芸術家、掃除夫。『非現実の王国で』の作者。誰に見せることもなく半世紀以上もの間、たった一人で1万5000ページもの作品を描き続けた。死後、アウトサイダー・アートの代表的な作家として評価されるようになった。
wiki参照、詳細はリンクご参照ください。

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ヘンリー・ダーガーは、もろもろあって一人暮らししてる部屋でひたすら壮大なストーリーを紡ぎ、その挿絵を膨大に描いた。ただ、その一連の作品はアパートの大家に死後処分を頼んだ事から、他者へ発表する意図で作られていなかった。あくまで、自分のために作り続けられた。その理由は、執着なのか救済なのか、わからないけど、結果として途方も無い自己完結な文脈が構築された。
無意味論において、発信者と受信者が同一であっても意味や無意味は成立する。ヘンリー・ダーガーは、他者に向かず、自己内に壮大な文脈を構築したのだ。

他者に向いてないから全然わかんないけど、壮大な文脈を感じる。ヘンリー・ダーガーの作品の魅力は、ここにあると思う。
また、多くのアウトサイダー・アートの魅力もこの構造なのではと思う。
他者への理解や共感を念頭に置かず、自己文脈を淡々と構築する、そこに美しさを感じるのだろう。修練した技術や、共感を得やすい被写体から出る美しさとは違う、アウトプットが拙かったとしても、より本質的な美がそこにあるように思う。

ヘンリー・ダーガーにとって幸か不幸か、住んでいたアパートの大家は、シカゴ・バウハウス派の写真家で工業デザイナーだった事だ。それにより、ヘンリー・ダーガーの作品は発見され、世に発表されてしまった。
今ではアウトサイダー・アートの最高傑作の一つとして世界中にファンがいる。ヘンリー・ダーガーの個人的な超厚文脈は、美術史文脈の一つに取り込まれてしまった。
こういう超個人的な、他者を念頭に置かない自分文脈は、僕にとって重要なテーマで、とても愛おしいものでもある。同時に他者の介入が幸せなのか、不幸なのかはよく考えてみたい。

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今回はなんか真面目でしたね。また。

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