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「ピア・プレッシャー」の文化こそ、 先生が遺してくれた一番の財産です。 -- 瀧本哲史の「遺伝子」を継げ #1

京都大学で「起業論」「交渉論」などの授業を担当し、No. 1若手人気教官だった瀧本哲史氏。学生たちと共に自主ゼミである「瀧本ゼミ」を立ち上げ、企業分析を通して、意思決定を先導する人間を育てようとしていた。瀧本さんが亡くなったいまも、瀧本ゼミは京都、東京の2拠点で、遺志を継ぐ学生たちによって運営されている。

ーーゼミ生や投資先、講義参加者など、瀧本さんと関わりのあった若者(ゲリラ)たちに話を聞く「瀧本哲史の『遺伝子』を継げ」1回目は、「京都瀧本ゼミ」の1期生であり、現在は大手新聞社に勤務する赤宮公平さん(仮名・20代)に話を伺った。赤宮さんは、東大講義に出てくるケーススタディ「学生会館の利用問題」で、モデルになった人物でもある。

「燃やす」が合言葉の、ブートキャンプのようなゼミ

「京都瀧本ゼミ」の第1回は、今回本になった東大講義の数ヶ月前、2012年の3月に開かれました。いま思うと、瀧本さんはあのころ割とヒマだったんじゃないかな。僕らみたいな学生と、京都でしょっちゅうつるんでいましたから。

自主ゼミ1期生というと「熱心だったんですね」といわれますが、実際はそうでもありません。もともと僕は瀧本さんの一般教養の授業を取っていましたが、それも「単位を取りやすい」のが動機です。そのうち、授業後に開かれる食事会にタダメシ目当てで参加するようになり、いつの間にか固定メンバーになっていました。

そのメンバーの1人がTwitterで「投資について学びたい」とつぶやき、瀧本さんが「じゃあ、勉強会やりましょうか」とリプライを飛ばしたのが、自主ゼミ発足のきっかけです。

ゼミは、週1回。瀧本さんの授業が終わる19時ごろ、学生が予約した教室に来てもらって行いました。形式はもちろん、「座学」ではなく「討議」。学生がプレゼンして、それをみんなで「燃やす」。とことん意見を言って議論するって意味ですけど、瀧本さんはど素人の学生相手に容赦ない。「そもそもここがダメ!」「こういう視点が足りない!」と、何もそこまで言わなくても……と思うくらい、毎回全力で燃やしてきました。

活動の合言葉は、「バリュー出す」。自分の能力を最大限に発揮し、何事かをなすことを瀧本さんは常に求めてきました。あまりに繰り返し言うので、それがゼミの文化となり、みんなが競って自分なりのバリューを出そうと奮闘しました。

1期生の頃から、既に飛び抜けて優秀かつ熱心な学生がいました。彼は初回からかなり気合の入ったプレゼンをしたんですよね。瀧本さんからもいい評価をもらっていて、僕らは食らいついていこうと必死でした。その「ピア・プレッシャー(仲間からのプレッシャー)」は、半端なかったです。

ゼミはいつしか「ブートキャンプ」と呼ばれ、脱落者も多く出ました。そんな状況に身を置いたのは初めてで、ただ圧倒されました。

「学生会館」交渉のウラ話

『2020年6月30日にまたここで会おう』を読んでいたら、「学生会館の利用問題」のケース(第四檄・82ページ掲載)が出てきて、驚きました。だってあの話、東大講義のたった3日前に、僕が瀧本さん本人に相談したネタですよ。読む前は、東大でどんなことを話していたんだろう? いろいろ当時のことを思い出してうるっとするかなと思っていたけど、いきなり僕の話がケーススタディとして出てきて、「あの話を速攻で使ったのか! 瀧本さんらしいなあ」と爆笑しました。

講義ではボカしてくれていますが、実際は、京都大学法学部の地下のコモンスペースをめぐるいざこざでした。そこでお酒を飲んで騒いだサークルがあって、大学側が封鎖するという強硬手段に出たんです。

貴重な交流スペースが使えなくなり、困った僕が「どうしよう?」とTwitterでグチったら、瀧本さんが「大丈夫ですか」とすぐに声をかけてくれた。経緯を説明したら、放っておけないと思ったのか「作戦会議をしよう!」と提案してくれて。レストランで会って戦略を練ったのが、2012年6月27日でした。

そこで交渉思考に基づくアドバイスをみっちり受け、行動の道筋を立てました。まず必要だったのは、大学側を交渉の場に引きずり出すこと。

調べたところ、学部生の2分の1か3分の1の賛成があれば、大学側が対話に応じてくれるという「太古のルール」が自治会にあった。おそらく学生運動時代の遺物だと思うのですが。そこで瀧本さんと一緒に、学生の投票を促すためにメリットを提示した過激な告知文を、ああだこうだと言いながら徹底的につめました。その文章は、某活動家のチラシでパクられたくらい、よくできた檄文で(笑)。おかげで必要な数の署名が集まりました。

そこから交渉を重ねた結果、大学側の厳しい条件をかなり押し返し、要求を通すことができました。この経験がきっかけで、僕は交渉にのめり込みます。その年の暮れには、「大学対抗交渉コンペティション」という交渉スキルを競う大会に出場。全国3位という結果を残せました。

実は僕、瀧本ゼミは途中からついていけなくなり、フェードアウトしてて……。そのことがずっとコンプレックスでした。瀧本さんからも「赤宮君は、まだまだですよね」と言われていましたし。

だけど大会で結果を出せたことで、少し前に進む自信をもてました。瀧本さんに報告すると、そういうのあまり表に出さない人なんですけど、すごく喜んでくれたのが伝わってきて。自分の身に迫った問題から始まって、交渉術を学び、成果を残せた。その過程で瀧本さんと身近に関われたことは、とてもいい思い出です。

馴れ合う「友だち」ではなく、高め合う「仲間」がいる

瀧本ゼミのOB・OGとの交流はずっと続いています。忘年会(瀧本さんは頑なに「year end party」という名前を好みました。「年を忘れる」というのがネガティブで嫌だったみたいです)で毎年集まるし、コロナの自粛期間中は当時の仲間とzoomでドキュメンタリーの鑑賞会をやっていました。そういうと「仲良し」っぽいですけど、ぜんぜん違って、馴れ合っているわけではありません。楽しい時間ですが、「結果出せない奴はここにいられない」というピア・プレッシャーを常に感じています。

実際、ざっと周りのOB・OGを見るだけでも、ヘッジファンドやシリコンバレーで働く人、有力スタートアップを起業する人など、20代ですさまじい結果を残している人がたくさんいます。古き良き大企業に入った人も、実力を認められて異例の昇進になるパターンは多いですね。

そして、偉そうなことを言いますけど、僕らが学生だったころより、現役のゼミ生のほうがずっとレベルが高い。大人顔負けの広告代理業を運営したり、切れ味のいい大学受験本を出版したりする人。OB・OG同士もそうですが、下からの突き上げもすさまじい。

こういうピア・プレッシャーは、ふだん仕事をする中でも刺激になっています。僕は新聞社で記者をしていて、先日、コロナ禍で取材が難しくなる中、連載の企画が通りました。「こんな時期だから助かったよ」と上司に感謝されましたが、「いやいや、こんなもんじゃない」と冷めた自分が、どこかにいる。こうやって会社の外側に「厳しいモノサシ」をもてるというのは、自分の成長にとってすごく大事なことだと思います。

僕自身、瀧本さんと濃密に接したのは、ゼミ立ち上げや交渉のアドバイスを受けた2012年でした。その後キャリアを積む中で、考え方の違いを感じて瀧本さんから離れた時期もあったし、彼の影響だけでここまで来たわけではありません。ましてや信者的な視点というのは、ゼミ生の誰ももっていないと思います。

それこそ、瀧本さんが遺してくれた一番の財産は、直接の教えというより、瀧本さんがつくった「ピア・プレッシャー」の文化だと思います。最初は単なる気まぐれというか、ヒマだったから始めただけでしょうけど(笑)。

2018年末に開かれたゼミの忘年会が、瀧本さんと会った最後になりました。僕は翌年から、社内でおそらく初となる、入社1年目での連載が決まっていました。これは「初物好き」な瀧本さんに報告だなと思い、参加したのを覚えています。

瀧本さんはすでに(病気で)元気がありませんでした。それでも報告を聞いて、ニヤッと笑った。その顔を見て、ああ、喜んでくれたなとわかりました。

これまでたくさん回り道をしたり、つまずいたり……。僕のキャリアは決して順風満帆ではありません。でも、瀧本ゼミのピア・プレッシャーがあるから、毎日がんばることができる。

瀧本さんは、バリュー出すことを何よりも喜んでくれる人でした。だからこそ、最後に会ったときに胸を張った姿を見せられて、本当によかったと思います。

そのうち、ゼミのOB・OGから飛び抜けた成果を出す人たちがあちこちから出てきて、ビジネスの分野でも、政治やその他の分野でも、気がついたら社会の主要プレイヤーが「瀧本ゼミ」でつながっている――。

そんな地下マフィアみたいな組織として、ゼミの存在がクローズアップされる日が来るんじゃないかと夢想していますが、そのために僕らはより一層、バリューを出していかないといけないのだと思っています。(了)


(取材・執筆:室谷明津子 @atsu_kom

【連載】瀧本哲史の「遺伝子」を継げ
#1「ピア・プレッシャー」の文化こそ、 先生が遺してくれた一番の財産です。 -- 赤宮公平インタビュー ← イマココ
#2「君たちは、2025年までに政権を取りましょう。」 -- 石橋由基インタビュー
#3 褒められたのは2回だけ。瀧本さんに食らいつくことで、僕は仕事の全てを学んだ。-- 久保田裕也インタビュー
#4「真摯に知的ボコボコにしてくれる大人って、どれだけいますか?」-- 松本勇気インタビュー


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